内田が美月への挑戦権を手にした試合から一週間後、東京・ディファ有明。
この日、通常のシリーズとは別の形で、
日頃あまり出場機会のない若手を主体とする興行が行われていた。
若手ということで全体的に知名度が低く、基本的にあまり注目されていないはずだったが、
今回ある事情により、直前になってやや重要な意味を持つ大会になった。
発端は内田が、美月への挑戦と併せて自分の持っていた中堅ベルトの返上を宣言したことにある。
これに伴い、急遽中堅ベルト王者を決めるべくトーナメントが開催されることとなり、
この大会で8試合ある第一回戦の内の2試合が、若手枠として行われることになったのだった。
「あれ、先輩?」
「どうも。試合前にお邪魔でしたか?」
試合を控えた神田の控室に、美月が顔を覗かせた。
「いえ。慣れてますから」
格闘技の経験年数ではむしろ美月より先輩にあたる神田は、流石に平然としている。
ちなみにこの大会で言う「若手」とはプロレスデビューしてから日が浅いことを指すので、
美月より年上の神田も若手に該当する。
ついでに言うと美月は既に、実績上はもちろん、
デビュー以後の年月で言っても既に若手の範疇に入らない。
「それより、今日は何かイベントだったのでは?」
「ん、まあ、それまでちょっと時間があったもので」
応援にきました、とか、激励にきました、とまで言えないのが美月だが、
共にタッグのベルトを巻いたこともある相方には、言わなくても伝わるので問題ない。
「ありがとうございます。急に降って沸いたチャンスですが、モノにして見せますよ」
無理に自分を奮い立たせたり気負ったりすることなく、神田はそう言ってのけ、
入場用のフード付きコスチュームを被って控室を出て行く。
自分などと違って、素直に真っ直ぐ成長していく年下の後輩の、後ろ姿がちょっと眩しい美月である。
黒い袖なしのフード付きジャケットを来て入場した神田は、
コールを受けると同時、目深に被っていたフードを跳ね上げた。
視線の先、対角の青コーナーに立っているのは藤原和美。
白地に孔雀のような赤い羽根が襟元から数本伸びた独特のガウンを纏い、
冷静な神田に対しこちらは正に気合十分といった表情。
共に若手ながらタッグ王者経験者という共通点のある両者、
それぞれの相方、橘みずきはリングサイトから、そして美月はバックステージから、
二人の戦いを見守っていた。
ゴングと同時、藤原が神田の脇をすり抜けてバックを取る。
「やッ」
そのまま背後から一息で持ち上げ、うつ伏せの形で神田を前に落とすと、
すぐさま前方に回り込んで首を取り、グラウンドでのフロントヘッドロックへ。
これに対し神田は首に巻きついてきた藤原の右手首を掴み、
体を左に回転させて藤原の下から抜け出しつつ、立ち上がってリストロックに極めた。
藤原も、すぐに自ら前転してマットに転がることで手首の回転を解消しつつ、
逆に神田の右手を取りつつリストロックでやり返し、神田の背後に回る。
取り押さえられようとしている犯罪者のような難しい体勢から、
神田は冷静に左腕を肩越しに伸ばして藤原の頭を掴み、
腰と背中を巧みに使って首投げで前方に投げ捨てようとする。
が、これを察した藤原は空中で器用に体を丸めて着地。
振り向いた藤原と立ち上がった神田は、互いに一旦距離を取って構えた。
ここまで、わずか十秒。
何気ない攻防ながら恐ろしく早い展開に、客席から溜息と拍手が送られた。
格闘技からの転向組ながら、美月等と練習する中で基礎をみっちり学んだ神田と、
元々基本に忠実な正統派である藤原はある程度噛み合う相手であった。
ただ基礎的な部分以外、それぞれ打撃と投げを得意とする両者の持ち味は全く異なる。
「……ッ!?」
何気なく、というか特に何も考えずブレーンバスターを仕掛けようとした神田は、
藤原が全く動かないことに驚いた。
体幹が強いとでもいうのだろうか、自分と同程度の体格であるはずの藤原の体が、
まるでマットに根を生やしたように持ち上げられない。
「っりゃああああああ!!!」
反対に藤原が一息で神田を持ち上げ返す。
ブレーンバスターの体勢でリングと垂直に持ち上げた神田を、
投げ捨てずにそのままニュートラルコーナーに向かった。
「ここで決めます!!」
コーナー上に神田を座らせた藤原が宣言する。
決めさせるかとばかりに神田が振るった掌底をかわして張り手一発。
動きを止めた神田の前、トップロープに足を絡めて向かい合う形で座り込んだ藤原は、
改めてブレーンバスターの形に組んだ。
そこから上体の力だけで、座っている神田の体を引き抜く。
「くっ」
抵抗しても無駄と悟った神田は、覚悟を決めて受け身に備えた。
自分も座っているために高さはあまり無いものの、
藤原は雪崩式ブレーンバスターで神田をマットに叩きつけ、
そのままスパイダージャーマンと同じ原理で起き上がり、今度はコーナー上に立ち上がった。
「飛びこめっ!クライシス・ダーイブッ!!」
という全く定着していない技名を宣言し、体を大きく反らしながら跳躍。
空中で横に90度旋回して神田の上に落下した。
が、大体予想していた神田はこれをカウント2でキックアウト。
「まだまだ、トドメの必殺技ッ!!」
再度宣言する藤原の声を聞く神田の頭は冷めきっていた。
神田の起き上がりに合わせてロープへ飛んだ藤原が戻ってきたところ、
左のボディブローが藤原の右脇腹に突き刺さる。
上下セパレートになっているコスチュームの間、剥き出しの皮膚が波打った。
「ふっぐ……!」
プロレスラーであれ何であれ、これをくらって平気でいられる人間などいない。
神田は藤原に膝をつくことを許さず、
その左側に回り込んで右腕を反対側の首筋に回し、藤原の左腕の下に潜り込む。
そこから背中に左手を添えて持ち上げ、両膝をつくことで落差を作りながら背中からマットに叩きつけた。
間髪入れずに押さえ込んだが、藤原はなんとかカウント2で肩を上げた。
「ちっ」
新技を返された神田だが、それなら別の手をと藤原を起き上がらせようとする。
体に力が入っていない藤原を強引に引き起こそうと屈んだところで、
「負けるかぁぁぁぁぁ!!!」
追い込まれて何かのスイッチが入った藤原は、いきなり体を起こして神田の首と左足を取り、
一瞬でフィッシャーマンスープレックスへ。
投げ切ったあとも放さず、横に回転して起き上がりつつもう一発。
さらに同じ動きで起き上がり、今度は高々と持ち上げてフィッシャーマンバスターで叩きつけた。
「うぐっ……」
ただ、投げ切った藤原も腹部のダメージからカバーには入れない。
動けない自分を鼓舞するように、藤原は仰向けのままマットを叩いた。
(油断したか……)
同じく天井の照明を見上げる神田は、対照的に追い込まれるほど思考がクリアになっていく。
両者同じタイミングで仰向けからうつ伏せになり、次いで手足をついて立ち上がる。
「よっしゃあああああッ!!」
まだまだ気持ちは折れないとばかり、気迫を込めて藤原が突進した。
右腕を振り上げ、肘を突きだす姿勢を見せつつ、右足を大きく踏み込んでくる。
手打ちではなく、全体重を込めた本気の一発。
そう判断した瞬間、神田の体は前に沈み込んだ。
藤原の右腕の下に潜り込むと同時、自分も体重を乗せた右拳を突き出す。
神田の右拳は、無防備に突出してしまった藤原の顔面、下顎部から口にかけてへ正面から衝突。
気力体力とは無関係に藤原の意識を断ち切った。
このまま倒れては反則負けになりかねない神田は、
崩れ落ちようとする藤原に膝を入れ、前傾させた姿勢で固定。
ロープへ走り、自らも飛び上がりながらの踵落としを決めてこの試合に決着をつけた。