メインの試合前、鏡以外の全員が揃った控え室にやってきた井上霧子は、
中森に向かって開口一番にこう言った。
「は?」
いつも通り完璧に準備運動を終え、まさにこれから試合へ臨もうとしていた中森には、
霧子の意図するところが掴めない。
「万が一怪我でもされたら大変でしょう?」
それだけ言って、霧子はさっさと控え室を出て行ってしまった。
「次の試合、中森にわざと負けろということだな」
「そんな!?中森さんだってまだ……」
頭に「?」が浮かんでいた小川に、ジョーカーが説明する。
「鏡一人が全勝できれば十分。それに最終戦を前にした合同興行のメインで、
片方がリングに寝転がって、もう片方がそれを踏みつけて開始3秒でフォールなんていう絵、面白いだろう?」
「面白いって……」
「少なくとも、ウチの女社長様はそう考えてるよ」
ジョーカーは投げ遣り気味に言い切った。
(さて、あとは本人次第だが)
「中森」
呼びかけに振り向いた表情は、怒りも困惑もしていない。
「まさか従う気じゃないだろう?アイツの足首、へし折ってやれよ」
ニヤリと笑って親指を下げたジョーカーにも特に反応を示さず、中森は静かに控え室を出て行った。
体育館フロアの扉をくぐり、セミファイナルの熱を引き継いだ観客の中を進んでリングに上がるまで、
普段と何も変わることなく淡々として見えた中森の内面は、その実、複雑だった。
(自業自得か)
ここまで感情を押し隠せるというのは我ながら感心するところだが、
それが果たして、プロレスラーとして何の役に立つというのだろうか。
そんな自嘲めいたことを考えている内に、後入場の鏡が出てきた。
TNA持ち込みの照明に照らされ、リングサイドの熱心なファンが上半身を投地する中、
優雅な微笑をたたえて歩く鏡の姿は、寡黙な中森とは対照的である。
片や好き放題に振舞ってこの待遇。
片や自己主張することなく、言われるままに仕事をこなして、あの仕打。
なんとも理不尽な気はするが、プロレス業界、特に中森たちの所属団体ではこんなものだ。
加えて、これまでの中森には特に主張するほどの自己は無かった。
しかし、今の中森には明確な主張がある。
(コイツは、気に食わない……!)
たったそれだけのことを主張するために、中森はようやく仕事を捨てた。
ゴングが鳴ると同時にその場へ静かに横たわった中森を見ても、鏡は眉一つ動かさない。
事前に霧子から話が通っていたかどうか。
自分に踏まれるのがさも当然とでも言うように、鏡は中森の上へ右足を置いた。
その瞬間、足首を取られた鏡が地面に手をつき、反対に中森が鏡の足を持ったまま立ち上がる。
「なっ……!?」
しかし、中森はすぐに鏡の足を放した。
「こんなことをしなくても、私はお前に勝てる」
「……痛い目をみなくて済むようにと思いましたのに」
視線を合わせた二人の目に冷たい戦意が宿り、シングルリーグ最後の試合が幕を上げた。
鏡の拳と中森の肘が交錯して始まった打ち合いは鏡が制し、ロープに押し込んで反対側に飛ばすと、
いきなりジャンピングニーパッドを中森の額に炸裂させる。
昏倒した中森の上体を起こし、スリーパーホールドへ。
序盤の繋ぎ技ではなく、左右に大きく振り回しながら本気で締め落としにかかった。
「ふん、私に勝てると?」
「勝てる……!」
足を畳んで強引に立ち上がり、締めている鏡の腰に腕を回して持ち上げ、
背中から落とす高度のあるバックドロップ。
すぐに引き起こしてボディスラムで叩きつけてから、中森はその場で飛び上がった。
「ッ……!?」
折った右膝を鏡の額へ投下。
怒りに任せて起き上がりかけたところを正面からのサッカーボールキックで蹴り倒し、フォールへ。
カウント2で返されても、更に続けてもう一度フォール。
地味な動きだが、着実にスタミナを奪うことができる。
「くっ」
鏡は、この後も終始ペースを握られたまま意外な苦戦を強いられた。
その原因、一つには技術においても力においても、両者の間に圧倒できるほど差が無いということ。
そしてもう一つは、中森は徹底して鏡を研究していたということである。
埒が明かないと見た鏡は、ラフな攻撃で活路を開こうとする。
顔面に爪を立てての掻きむしりから、正面から喉を掴んで押し倒し、体重をかけて締め上げる。
だが、明らかな反則攻撃を見たレフェリーが割って入る前に、
下から抵抗した中森が反転して上になり、同じことをやり返した。
「ぐぅっ……!」
「かはっ……!」
しかし更にもう一度反転して上になった鏡は、両手を使って全体重をかけて締める。
ついにレフェリーが止めに入ったが、一旦離れると見せて、
喉を押さえてロープ伝いに立ち上がろうとする中森へ滑るように近づいた。
正面から真上に持ち上げ、そのまま体を半回転させつつ背後に倒れ、中森の首をロープへ。
これまでのリーグ戦でも多用してきたスタンガンから、無防備な中森の背後を取り、両手を封じる。
そのままぐるりと回転してアンプリティアー――へ移行しようとした時、
下になった中森が足を畳んで自ら鏡の背中へ潜り込み、そのまま一気に立ち上がった。
「そんな!?」
自分の背中で逆さまになったまま呆気に取られる鏡を、
中森は、その場に尻餅をつくことで頭からマットへ突き刺した。
グリンゴキラーとかバーターブレイカーとか呼ばれる技と同じ落とし方である。
そして、中森はついに戦いの中で鏡の足首を取った。
「ああっ……!!」
頭を打って朦朧としていた意識を痛みで一気に覚まされた鏡は、悲鳴を上げてマットを這う。
「諦めろ!」
中森が夢見た瞬間であった。
中森が、この技に至る過程で足首を攻めない理由はいくつかある。
霧子に叩き込まれたものとして、足を攻めることで相手の動きが鈍ったり制限されたりして、
一見の客には相手の技やキャラクターが十分に伝わらない恐れがあるため。
そして鏡を引き立たせるため。
だがしかし、何よりも、中森にはこの技のみで試合を決められる自信があった。
「放……せっ!」
痛みを我慢し、足首を取られたまま仰向けになりつつ右足を曲げた鏡が、
空いた左足で中森を蹴って脱出しようとしても、中森は放さない。
また、マットを掻いて前進した鏡の指がロープに触れたが、すぐにリング中央へ引き戻した。
「あああああああ!!」
ついに鏡の手が、マットを叩く位置に上がる。
既に決勝トーナメント行きを決めている以上、ここでの一勝に大した意味は無い。
タップアウトが妥当な選択と思われたが、
(……有り得ない!)
鏡の中の何かが、それでも敗北を拒んだ。
捕まった右足を歯軋りしながら再び曲げて中森を近づけ、左足を中森の左脇に引っ掛けると、
鏡は中森の両足の間を抜けるように頭を下げて転がる。
足首を掴んだまま勢いで前に転がされた中森の上に跨り、右手で中森の両足を抱えながら、
ついで目の前にあったセカンドロープを左手で掴んで体を固定。
辛くも、反則のフォール勝ちを奪い取った。
○フレイア鏡 (11分04秒 丸め込み) 中森あずみ×
「ちっ」
マットに拳を叩きつけて悔しがる中森を嘲笑う余裕も無く、鏡は足を引き摺ってさっさと引き上げた。
それでも顔だけはあくまで余裕の表情なのだから、ある意味大したものである。
「惜しいっ!」
「あ、危なかった……」
ジョーカーと霧子はそれぞれの場所で声を上げたが、どちらも、
(大会の後が面白くなりそうだ)
と、中森の変わり身を喜ぶ。
こうして、TNA勢同士の対決は幕を閉じたのだった。