一人のヒールができるまで 葛城早苗の場合

 とあるドーム球場控え室。
 試合着に着替えてリングシューズの紐を結び終わると、
 葛城早苗はいつものようにイスに浅く腰を下ろし、
 両肘を膝の上に置いて身体を曲げ、俯きながら集中を高め始めた。
 しかし、普段なら目を瞑ればすぐに試合のイメージが湧いてくるところが、
 今夜は何分経っても頭の中に雑念が渦巻くばかりで集中できない。
「ふぅ……」
 仕方なく身を起こすと、傍らにあったペットボトルの水を一口含んだ。
 そして、イスに深く座り直すと背を反らし両手を頭の後ろに回して、
 諦めた様に今度は自分の雑念について考えてみることにした。
 なんで、自分はこうも浮ついた心持ちでいるのか、と。


 葛城は自分の団体のエースだった。
 彼女は、その団体が旗揚げして数年を経た頃に入団し、
 当時既に上り調子だったそこが大きくなるにつれて段々と頭角を表していった。
 もちろん才能はあったし、何より練習熱心だった。
 加えて、リング上の出来事に余計な装飾を加えない団体のスタイルが、
 葛城のストイックさに合ってもいた。
 デビューからちょうど3年後にはシングルヘビーのベルトを奪取して
 名実共に看板レスラーとなり、同時にその頃には団体がかなり大手になっていたので、
 一般への露出も増え、世間での知名度も上がった。
 無論、ファンが増えれば葛城だって悪い気はしない。
 この頃が、リングの内外を問わず葛城も団体も一番充実していた時期だった。

 2年たった。
 葛城自身はいまだトップレスラーとしての実力と地位を保ち続けていたが、
 団体の人気の方にはやや翳りが見え始めていた。
 依然、まず戦いありきの無骨なスタイルを貫いていた団体が、
 派手な舞台装置や大胆な話題づくりで注目を集め始めた
 新興団体の人気に押され始めたのだ。
 まだ所属選手全員が危機意識を持つほど深刻な状況ではなかったものの、
 フロント陣が連日人気回復に向けての協議を開いていた頃、
 ある一人のレスラーが団体に参戦した。
 それこそが、今夜これから葛城が対戦する相手、ライラ神威であった。
 ライラは参戦するなり最初の試合で藤原を反則攻撃で大流血に追い込んで病院送りにし、
 その後も越後、来島、近藤と同じような目に遭わせて連日連夜反則負けを繰り返した。
 もちろん初めの内は、選手・フロント共にライラ自身とその試合内容を嫌っていたが、
 少なくともフロント陣にとっては、すぐに嫌いとばかりも言っていられなくなった。
 ライラに人気が集まりだしたからである。
 選手達がリング上で妥協無く技と肉体を競い合う、といえば聞こえはいいが、
 ともすればこの団体においては
 全試合が同じような内容の単調な繰り返しになってしまうことも多い。
 そんな中で、ライラの試合のみは何が起こるかわからず、
 その過剰とも言える反則攻撃を楽しみにする観客が多くいても不思議はない。
 さらに言えば、ライラには並のヒールにありがちな卑屈さが全く無いということも、
 彼女が人気を集める要因の一つであるかもしれない。
 ライラの反則は試合に勝つためのものではなく、
 むしろ試合に勝とうが負けようが相手を痛めつけられさえすればそれでよかった。
 とにかく、ライラは反則行為を繰り返しながらもフリー選手として団体に呼ばれ続け、
 それどころか正式に所属選手として契約を交わすに至った。
 またその契約がリング上で行われた際にもライラは暴走し、
 社長他同席していた数人をその場で殴り倒し、
 セットされていた机を引っくり返して暴れた末に、
 契約書を引っ手繰るようにサインしてさっさと引っ込んでしまった。
 このことでライラの人気はいよいよ高まったのだから、
 社長としてはその一事だけでも殴られ損ではないと思って自分を慰めるしかなかった。

 しかし、フロントの意向など知らない葛城にしてみれば当然面白くない。
 新参者がやりたい放題に暴れているのは元からの所属選手として気に障るし、
 加えて葛城と同じことを考えてライラに突っかかって行った選手達が見事に返り討ちにされ、
 実力的にもなかなか侮れないということがわかってきていた。
 そういったわけで、今から一月前のある大会において、
 ライラの試合が終わった直後に
 ベルトを携えた葛城がリングに上がってライラを挑発する場面があった。
 挑発といっても、
 「最近威勢がいいようだが、勇気があるなら自分に挑戦してみろ」ぐらいのことで、
 必要以上に相手を貶めたりはしない。
 その時はライラが「ああ?」と言っただけで裏に引っ込んでしまい、
 葛城としてはすかされた形になった。
 が、本物の返答はその後にあった。
 同日、メインイベントを戦っていた葛城の背後をイスで殴って襲い掛かり、
 そのまま滅多打ちにした後で、ライラは、
 「さっきの話、受けてやるよ」と宣言したのだ。


 そういう流れでこれから葛城はライラとタイトルマッチを戦うのだが、
 葛城がここ一月ずっと気にしているのは、ライラが自分の試合に乱入した時の光景である。
 あの場でも、観客は圧倒的にライラを支持していたのだ。
 長く団体を引っ張ってきた自分が、憎むべき反則攻撃を受けているにも関わらず、
 ブーイングの声は圧倒的に少なかった。
 ただ、同時にそんなことを考える自分が卑しいとも思う。
 自分はより強くなるために戦ってきたのであって、
 別に観客に喜ばれるために戦ってきたのではない、と。
 しかしそれでも、この仕打ちはあんまりじゃないか――と、
 考える度に思考が堂々巡りに陥ってどうしようもなかった。
「葛城さん、出番です!」
 不意に控え室の扉が開いて藤原が顔を出すと、
 葛城はすぐに立ち上がり、部屋を出る前に一つ深呼吸をする。
(考えても、仕方がない)
 とにかく、今は試合に勝つことだけを考えようと決めた。
 それに、直接戦うところを見れば観客の反応も変わるかもしれない。
 何せ今日は、アイツが自分の口から負けを認めるところが直に見られるのだから。
 そんなことを思いながら控え室を出た葛城の顔には、
 この時から既に暗い影が差していた。

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by right-o | 2008-08-06 23:05 | 書き物