30のお題 No9 必殺技?

 あるシリーズの開幕戦のこと。
 都内の某会場で行われたこの興行のメインイベントは、チャレンジマッチとしてシングル王者フレイア鏡に急成長中の若手相羽和希が挑む一戦だった。
 試合は経験で勝る鏡が序盤からペースを握ったまま10分が過ぎようかというところ。
「やぁっ!」
 鏡に蹴り足を取られた相羽は、残った方の足でマットを蹴り、苦し紛れの延髄斬りを繰り出す。
が、これを読んでいた鏡は頭を下げて回避した。
「終わりですわ」
 べちゃっ、とマットにうつ伏せに倒れこむ形になった相羽の足に、鏡は自分の足を絡めると背中に圧し掛かり顔に腕を回す。
鏡必殺のSTFの体勢とあって、見守る観客もセコンドについていた選手達もこれで勝負は決まったかと思った。
しかし、
「まだまだぁっ!」
 もはやギブアップを待つだけだったはずの当の相羽だけは、この期に及んでも勝負を捨てていない。
ちょうど鏡が相羽の背後からその顔面を締め上げようとした時、相羽は鏡から逃れようとしてもがく中で、意図せず頭を思いきり後に反らせてしまった。
「うぶっ………!?」
その結果相羽の後頭部が鏡の鼻を直撃し、不意のことに珍しくうろたえた鏡は鼻を押さえてその場にうずくまった。
 指の間からは赤いものがマットに滴っている。
デビューして3年、偶然生まれたこの絶好の勝機を見誤るほどには既に相羽も甘く無かった。
鏡の腰に手を回してがっちりとクラッチをつくると、相手が膝をついているのも構わずそのままの体勢で引っこ抜く。
「いっやあああぁぁぁぁぁ!!!」
 気合一閃、見事に決まった相羽のスターライトジャーマンは、受身を取り損ねた鏡の意識を飛ばし、大先輩から殊勲の3カウントを奪取した。


 ということがあった翌日。
 シリーズ日程の都合でこの日は試合も移動もなく、選手達はそれぞれ体を休めたり自主的に練習をしたりして思い思いの一日を過ごしていた。
 そんな束の間の休日の終わりに選手達が夕食のために寮の食堂に集まっていると、不意にドアが開き、鏡が食堂に入って来た。
 鏡はこの日朝から姿を見せていなかったため、他の選手達は昨日の敗戦がショックだったのではないかと心配していたが、こうして見る限りでは普段どおりで特に精神的に堪えているという様子はない。
 しかしたった一点、ほとんど鼻を覆うようにして医療用テープで固定されている大きなガーゼが、昨夜の無様な敗戦を物語っているだけである。
 鏡は自分に集まる注意には気にも留めない様子で普段と同じく長テーブルの端の指定席に腰を下ろすと、隣に座っている八島に声をかけた。
「相羽さんはどこに?」
 ちょっと、周囲が緊張する。
「あ?ああ…多分、まだ練習してんじゃねーか」
「そう」
「あの…」
 この団体のまとめ役で、最も年長の吉原泉が普段通りのやさしい調子で問いかける。
「和希ちゃんに何か用?」
「ええ。個人的な用事ですわ」
 特に苛立っている様子こそないものの、相羽に個人的な用事があるという言い草は、周囲に色々な想像をさせた。
 いかにもプライドの高そうな鏡には、自分より格も年齢も下の若手に、事故があったとはいえ完璧な3カウントを奪われるなど我慢ができないはずの事柄で、もしかしたら何か仕返しを考えているのではないか―――
 と、この場にいる選手の大方の考えはこうだった。
 一人例外を除いて。
「ぷっ………」
 真鍋つかさだけは、鏡が入って来た瞬間からただ笑いをこらえるのに必死だった。
 つかさには、いつも通りの鏡の澄ました顔と態度にどうしようもなく不似合いな鼻のガーゼがひどくマヌケに見え、可笑しくて仕方がなかったのだが、一応大先輩であり団体内のヒール側のリーダー格でもある鏡にはつかさなりに遠慮して、笑いをこらえていた。
しかし、それももう限界に近いらしい。 
「つかさ…。鏡さんに聞こえるよ?」
「だってかすみん、あれは、アレは…くっ……ぷぷぷ…」
 これでもつかさは必死に可笑しさを押し殺そうとしているのだが、口の端からどうしようもなく笑い声が漏れている。
 笑い声のせいでつかさの感覚が伝染したのか、八島を挟んで鏡の近くに座っていた村上姉妹まで二人一緒に俯いて肩を震わせ始めた。
「………」
少なくともつかさに気づいていないはずは無いのだが、鏡はとりあえず無反応だった。
 すぐ横にいた八島と吉原は呆れている。
 すると鏡は突然組んでいた足を解き椅子からスッと立ち上がった。
 一瞬後、相羽が食堂のドアを開けた時には既に相羽の方に向かって歩きだしている。
 鏡が相羽の目の前に立つと、ちょうど10センチの身長差そのまま自然に相羽を上から見下ろす形になった。
 周囲の緊張が高まる。
 八島と吉原は二人とも少しだけ腰を浮かせていた。
 年長者同士の暗黙の了解として、ヒールもベビーもなくリング外の争いは収めるという意識が二人にはあるのだろう。
 見下ろされている相羽自身は、姿勢こそガチガチに固まっているものの、その目は先輩の威圧に負けまいという気迫で漲っている。
「相羽さん」
「は…ハイ!」
 が、意外にも相羽を見る鏡の眼差しと声音は妙に優しげだった。
「社長にはもう話をつけておきました。このシリーズの最終戦、あなたを私のベルトに挑戦させてあげます」
「ハ……ええっ!?」
「当然よ。若いといってもあなたはもう十分に実績を積んだもの、ベルトに挑戦する資格は十分にある。それに」
 鏡は一旦言葉を切って相羽の目をみつめた。
「リングの借りは、リングで返さなくては私の気が済まないわ」
「…わ、わっかりましたっ!!ボク、鏡先輩のベルトに挑戦します!一生懸命やります!よろしくお願いします!!」
 深々と頭を下げる相羽と、満足げな微笑をみせた鏡を見て、周囲は少し安心した。
 「そういうやり取りはリングでやれよ」と思わなくもなかったが。
「さて、と。挑戦させてあげる、なんて偉そうなことを言ったけれど、昨日は私が相羽さんに敗れているのよねえ」
 そう言いながら鏡は、まだ一人突っ伏して笑っている小悪魔の方へ向きを変えて歩を進めた。
「タイトルマッチに向けて新技の特訓をしなければいけないわ」
「み゛やっ!?」
 鏡はつかさのパーカーの後襟を掴んで立ち上がらせると、襟を掴んだままつかさを引き摺るようにして食堂を出て行った。 
「いやぁぁっ!助けてかすみ~ん!!」
「黙りなさい。別に痛いことはしないから」
「つかさ、それは自業自得だよ…」
 尊い犠牲を払ったものの、とりあえず何事も無く済んだということで選手達は皆ほっと胸を撫で下ろして引き摺られていくつかさを見送った


 その夜。
「おい、千秋、千春」
「なんスか姉御」
 夕食後、食堂に残ってテレビを見ていた八島は頬杖をついて体をテレビに向けたまま、背後に同じく座っている村上姉妹に声をかけた。
「遅いと思わねーか?」
「え、何が?」
「鏡たちだよ」
 つかさを引き摺った鏡が食堂を出て行ってから、もう三時間が経とうとしている。
 鏡はともかく、夕食前に連れ去られたつかさはもうとっくに音をあげているはずだった。
「んー、鏡さんさっきは平気な顔してたけど、やっぱり悔しかったじゃないッスかね」
「それで練習に熱入っちゃってなかなか放してもらえないんスよ、きっと」
「お前ら、ちょっと道場行って見てこい」
「えーっ…」
 今まで千春→千秋と交互に喋っていた姉妹がここで口を揃えた。
「自分で行けばいいじゃないッスか」
「もうすぐ食わず嫌い始まるし」
「…いいか、アタシはなあ」
 千秋→千春の順番に代わった姉妹の方へ、八島は頬杖の上で首だけを使って振り向く。
「物心ついてから一度も金八先生を見逃したことはないんだ」
「ハ?」
「あー、要するにどうせ自分がドラマ見るからオマエら食わず嫌い見れねーよ、って言いたいんスね」
「どうでもいいから早く行ってこい」
 そう言って八島が視線をテレビに戻した後、姉妹は顔を見合わせ、一つ溜息をついて席を立った。


「ったく、自分で行けっつーの」
「いつもなら真鍋に行かせるとこなんだけどなー」
 ぼやきながら、二人は寮と直結している道場の扉の前に立った。
「明かりは点いてっけど、音しねーな」
「疲れて休んでるとか…」
 と言って千秋が引き戸に手をかけた瞬間、
「イィィィィヤァァァァァァァァ!!!?」
 中からつかさの絶叫が響いたかと思うと、内側から戸が開き、悲鳴の主が転がり出てきた。
「ちょ、おい!真鍋どうした!?」
「は、初めて、私初めてだったのに……!」
 つかさは千秋の胸に顔を埋めて何かぶつぶつとつぶやきつつ、震えている。
 かなり動揺している様子のつかさを二人が持て余していると、中からコツコツと足音が近づいてきて、鏡の声がした。
「ダメね。その子じゃ身長が違い過ぎてうまく掛からないわ。…あら」
 わざとらしく、鏡は姉妹に視線を向ける。
「ちょうどいいところに」
 その夜、姉妹が開放されたのは日付が変わった後だった。


 二十日後、シリーズ最終戦。
 ウォーミングアップを終え、試合着に着替えて自分の出番を待っている鏡の控え室に八島が入ってきた。
「凄い客だよ」
 言うなり壁に立てかけてあったパイプイスを一脚取ると、鏡と向かい合って座った。
 八島の言うとおり、まだ知名度の低い若手の相羽にメインを張らせることへの会社の心配を余所に、蓋を開けてみれば大会場ながら興行的にはなかなかの成功と言える入りであった。
 後はメインを待つだけとなり、タイトルマッチに向けてリングアナウンサーがもったいをつけた文句を喋っている今も、その煽りに反応する観客の声援がバックステージにまで聞こえてきている。
「そう。私が相羽さんに負けたのが話題になったのかしら」
「それとアンタが煽ったからだよ」
 この日のスポーツ新聞は、各紙それぞれ“鏡、新技投入を予告!”だとか、“リング上で血の制裁か!?”といった風に題してこれから始まる試合について大きく紙面を割いてくれていた。
 これは、普段それほどマスコミに多くを語らない鏡が珍しく記者を集め、いかに相羽に負けたことが悔しかったかということと、今度の試合では相羽に必ず借りを返すということを様々な表現で語ったことが一因になっている。
「何企んでるんだい?」
「別に。…そうね、これに書いてある通り」
 鏡が指し示した化粧台の上のスポーツ新聞には、“鏡、新技でギブアップ狙う”とある。
「ふーん。で、その新技ってのは?」
「全く新しい技を考え出したわけではないわ。そうね、ちょっとマイナーな既存の技に斬新なアレンジを加えた、というところかしら」
「斬新なアレンジ、ねえ…」
 八島はどうにも鏡の言う新技が気に掛かっていた。
 というのも、あの村上姉妹を道場に見にやった翌朝、そのまま帰って来なかった姉妹とつかさの三人は揃って抜け殻のように虚ろな目をして起き出してきたのである。
 あの夜に行われた特訓がその新技絡みのものだったということは間違いが無いが、八島が三人にいくら事情を聞いても、
「初めてだったのに…」
 とか、
「姉御、アタシらにもね、青春ってヤツがあったはずなんですよ…」
 などと要領を得ない答えばかりで何をやっていたのか全くわからなかった。
「ま、アタシにはどうでもいいんだけどな」
 そう言って八島は、一旦はお手上げとばかりにパイプイスの背もたれに体を預けた。
 八島の出番は先ほど終わったところだが、スタイル柄苦手とする中森あずみとの一戦で、勝ちはしたものの楽な勝利とはとても言えないキツイ試合だった。
「お疲れね」
 鏡は気だるそうにしている八島を労った。
 二人は互いに組んだり戦ったりしながら今まで長いことやってきた仲で、同期でもある。
「思えば、アタシも相羽ぐらいの頃はこんなに疲れたりしなかったな」
その時不意に控え室のドアがコンコンと二回ノックされた。
 もうすぐ試合、という合図である。
「ま、油断さえしなけりゃ相羽はまだまだアンタの相手じゃないだろうし、せいぜい痛めつけて王者の威厳ってやつを示してやんなよ」
「痛めつける?」
 ドアを開けて出て行こうとする鏡の背中に向かって八島が声をかけると、鏡は立ち止まり、顔を半分だけ八島に向けた。
「辱めるのよ」


 試合開始のゴングが鳴った後、鏡はおもむろに相羽に歩み寄って右手を差し出した。
(「白々しい」)
 控え室のモニターで見ていた八島でなくともそう思わざるを得ない。
 鏡がここで握手と見せかけて奇襲、というような陳腐な手段を取らないことはよくわかっていたが、かといって最後まで真っ当な勝負をするつもりがないということはそれ以上に明白である。
「血まみれで失神、なんてことにならなきゃいいが」
 鏡の手を両手でしっかりと握り返した相羽を見て、八島はそうつぶやいた。
 控え室を出る際の鏡の一言で、やはりまた試合の行方が気掛かりになってきている。
 とはいえ、そんな八島の考えとは別に、今のところ試合自体はごく普通の展開を見せていた。
 始めこそ鏡は相羽が挑んできた力比べに応じるかにみせてこれをいなし、すかさずバックを取ると軽く持ち上げてテイクダウンを奪うことで得意のグラウンドに持ち込む場面があったものの、後はどちらかというと相羽に合わせて、相羽にもらった同じ技をすぐにやり返したり、ブレーンバスターを力ずくで堪えたりしていつにも増して正統派的なプロレスを戦っている。
 そうこうしている内に特に反則も場外戦も無いまま15分が過ぎ、互いに残りの引き出しも少なくなってくると、リング上は一見それぞれの気迫の勝負といった様相を呈していた。
「うおおぉぉぉぉぉ!!!」
 鏡の踵落しを思いきり頭で受けた相羽は、それでも倒れることなく咆哮すると、ロープに走って渾身のラリアットを返してから自分もマットに倒れこんだ。
 両者への声援が交錯する中で二人は同時に立ち上がり、どちらからともなくエルボーを繰り出し、返し、互いに肘での殴り合いを続ける。
「くっ…!」
 先に鏡の手が止まったと見るや、ここが勝機と見た相羽は余力を振り絞って延髄斬りを繰り出した。
 前回と違い打点の高い見事な一撃が側頭部に決まると、たまらず鏡は前のめりになり、足に力が入らずに倒れそうになるところを必死で堪えているように見えた。
「よおっし!決めるぞぉっ!!」
 両手を掲げて観客にアピールすると、相羽は鏡の背後に回り、この勝負にケリをつけるべく鏡の腰に手を回す。
 しかし。
「え?」
 背後から正面に回った相羽の左手首が鏡によって捕まれた、と思ったほんの数瞬後にはその左腕そのものがどういうわけか相羽自身の首に巻きついていた。
体勢としてはコブラクラッチに近いが、締め技ではない。
「まだ、これからよ」
 鏡はしっかり掴んだ相羽の左腕に全体重をかけて引っ張りながら、マットに対して仰向けに倒れこんだ。
 自然、首に掛かった自分の腕に引き摺られる形で相羽は後頭部から引き倒される形になる。
「うあっ…!!」
 高さこそ無いが、受身はほぼ不可能に近い落とし方である。
「(アレが新技か?)」
 モニター越しの八島は一瞬そう思ったが、すぐに思い直した。
 見たことの無い形ではあるが、わざわざ事前に使うことを予告して出すような技とも思えない。
『ワン、ツー、…』
 危うくカバーを跳ね返した相羽にも、まだなんとか余力はあるように見える。
 逆に返された鏡の方が、いかにも苦しそうにへたりこんでいた。
 両者ともそのまま立たずに呼吸を整えていたが、しばらくして鏡はいかにも辛そうな様子でニュートラルコーナーまで這ってたどり着くと、そのままのそのそと登り始めた。
 体力の回復を終えた相羽が膝を突いて立ち上がろうとしている時、ちょうど鏡が普段滅多に使わないコーナーの二段目に上り終え、ふらふらしながら相羽の方向に向き直ろうとしているのが見えた。
「三味線弾いてやがる」
 という八島の観察は当たっている。
 相羽にもう少し経験があれば、あるいはこの芝居を見破ることができたかも知れない。
「(ここでもっと攻めないと!)」
 という、追い込まれてもまだ前向きさを保っている相羽の心理を読んだ鏡の陽動である。
 加えて事前の新技投入予告もこの辺りを計算に入れてのことだった。
「させない!」
 鏡のいつもとは違った動きを何か新技への予備動作と見たのか、相羽はそれを阻止するためにセカンドロープに立っている鏡を止めようと、とりあえず拳を振り回す。
「かかったわね」
 伸びてきた相羽の右腕を掴むなり、鏡はすぐさま引き寄せて腕の付け根を両足の太股で固定し、そのままお尻でロープを乗り越えると相羽の腕一本に自分の全体重をかけてトップロープから逆さまにぶら下がった。
 要するにロープぶら下がり式の腕ひしぎ逆十字固めの体勢である。
「…ッぁああああああ!!」
 流石の相羽も肩から逆方向に曲がった腕に加減無しに体重をかけられては悲鳴をあげる他無かった。
 しかし反則であるこの技でギブアップを取られることは無い。
『ワン、ツー、スリー、フォー、…』
 この試合が始まってから初めて数えられる反則カウントを聞きながら、鏡はさらに相羽の腕を引っ張ることでゆっくりとロープ上に体を戻し、脚で挟んでいた腕を放した。
「あ…あ……!」
 相羽はリング中央へ数歩ふらふら進むと、腕を押さえてうずくまってしまった。
 一方鏡は、長身を反り返らせてロープに預け、そんな相羽の様子を見下ろしている。
 微笑んでいた。
「趣味悪ぃな…」
 と八島はそう思う。
 しかしモニターの中の鏡はこの上なく楽しそうだった。
 少し前の苦しげな表情はどこに行ったのか、待ち合わせ場所に遅れてきた恋人が道の向こうから必死で走ってくるのを眺めてでもいるように、期待感と少し意地の悪さが混じった、およそプロレスの試合中には似つかわしくない表情をしている。
 見られている相羽の方はそんなことに気づく余裕はなく、半ば痛さを通り越して感覚がなくなりつつある右腕を庇いながらも、なお立ち上がろうとしていた。
 なんとか両足で立ち上がり、前傾している上半身を起こそうとした時、相羽の視界に火花が散った。
 相羽の頭が上がるのを待っていた鏡が、横合いからニーリフトで相羽の顎を跳ね上げたのである。
 相羽は一瞬棒立ちになった後、ゆっくりと倒れた。
「ウフフフフフ…」
 目前に迫った楽しみを堪えきれなくなったのか、鏡の声が漏れる。
 すぐにはカバーにいかず、動かない相羽の真横に回ると、ゆっくり脚を折って横座りになり、目を閉じた相羽の顔を横から覗きこんで、申し訳程度に両肩を押さえた。
「(寝てろ、相羽…ッ!)」
 揃ってエプロンから首だけ出してリング内を見ていた村上姉妹とつかさは、相羽のことを心底思ってそう願った。
 が、相羽は返した。
「…ッバカにするなッ!!」
 もはや体力は尽き、相羽に残っているのは意地だけである。
 そんなこの期に及んで一気にガバッと上体を起こす形でカバーを返した相羽は、試合後にここで最後の意地を張ってしまったことを深く後悔することになった。
「流石だわ!」
 起こした相羽の上半身とマットの間に出来た隙間に、鏡は素早く下半身を滑り込ませると、両脚を開いて相羽の両腕を一気に捕獲した。
 と同時に正対する形になった上半身では、相羽の頭の後ろに正面から腕を回してがっちりと固定する。
 “ゆりかもめ”と呼ばれる技の体勢である。
 互いにくっついて上下逆方向に仰向けで寝ている状態から、相手の両腕の付け根付近を蟹バサミの要領で締め上げ、自然前に突き出てくる相手の頭部に手をかけて自分の方向に引っ張ることでこの技の体勢になる。
「痛…い…い…た……ぃ…」
 苦しむ相羽の両手は既にマットを離れ、タップアウトはできなくなっている。
 それ以前にロープは遠く、移動は全く不可能。
 主に腕と首にかかる苦痛から逃れるためには口でギブアップを言うしかないのだが、こんな状態になってもまだ、相羽の意地は負けることを拒んでいた。
「もう降参しちゃったら?」
 かすかに首を振る相羽の様子を、鏡はうっとりと眺めている。
「あらそう?困ったわねぇ…」
 そう言いつつ、鏡は体を前後に揺らした。
 当然揺れは密着している相羽の上体に伝わり、苦痛に波をつくる。
「あ…!…ぁ……!」
「このまま時間切れまで頑張ってみる?今何分だったかしら」
 制限時間60分の内、まだ40分も経っていない。
 もはや相羽の右腕は痛いなどというどころではなくなり、首を極められていることも手伝ってか段々と顔が紅潮してきている。
「まさか、アイツ…」
 控え室から見ている八島には、二人がこの体勢にはいってからずっと気になっていることがあった。
 顔が近いのである。
 加えて鏡が腕に力をこめるごとに相羽の頭が鏡の方に近づく形になり、もはや両者の鼻と鼻が触れ合うほどの位置に来ている。
 結局八島の危惧は最後まで当たった。
「ギブ……ァッ…」
 遂に我慢の限界を迎えた相羽が降参を口にしようとした時だった。
「ン……ッン……!!」
 目を見開いて声無き声を上げる相羽を見て、一瞬、こうなることを知っていた三人を除いた会場の全員が固まった。
 鏡の唇が相羽の口を塞いだのである。
 使い果たしたはずの力を使って、相羽は足をバタつかせ、首を振り、体を揺すって鏡を振りほどこうとしたが、無駄だった。
 そのままどれだけの時間が経ったろうか。
 呆気に取られていたレフリーが焦点を失った相羽の目に気づいてようやく試合を止めると、鏡は相羽を放し、唇を拭うと、ベルト受け取りさっさとロープを跨いだ。
 何か喋ろうかとも思ったが、やめた。
 大声援と怒号が入り混じった中花道を戻ると、バックステージに消える寸前に振り返り、鏡は改めてもう一度唇を拭って見せた
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by right-o | 2007-12-15 23:01 | 書き物