30のお題No4「ギブアップ」

 美月は一人、道場のリングの上に立って目を閉じていた。
 頭に浮かぶのはこれまでの戦いと、これから始まる戦い。
「(それにしても――)」
 今回のアジアタッグで、美月は自分の上達を噛み締めていた。
 決して過信ではない確たる裏付けのある自信を、試合毎に深めることができている。
 その裏付けこそが、
「(我ながら、よく耐えられたものですね)」
 というふうに美月を感傷的な気分にさせるのである。


 杉浦美月入団の日。
 彼女は軍団のボスから二人の先輩を引き合わされた。
「こっちの二人が、直接君の指導にあたることになるから」
「鏡ですわ」
「吉原です。よろしくね、杉浦さん」
 二人とも物腰の丁寧な、理知的な大人の女性という感じで、少なくとも厳しい先輩には見えなかった。
 が。

「せ、先輩…もう無理であああああああ!!!」
 初対面の印象は、練習初日のスパーリングからすっかり変わることになる。
 タップしようが悲鳴を上げようが、この先輩達はそう簡単に手を緩めてはくれないのである。
「よ、吉原君、もうちょっとこう、手心というか…」
「でもリーダー」
「痛くなければ覚えませんわ」
 ボスの諫言にこう返した時の二人の爽やかな顔を美月ははっきりと覚えている。
 二人とも別にイジメでやっているのではなく、本心から美月のためを思って指導してくれている。
 それは、美月にもわかる。
 しかし、だからこそ一層タチが悪くも感じた。

 そういうわけで、 
「無理です!もう本当に無理ですから!!」
「大丈夫大丈夫」
「折れます!折れますって!!」
「痛くない痛くない♪」
 常に笑顔を絶やさない吉原先輩と、
「ギブ…!ギブアップです!!」
「あら、まだ体重かけてませんわよ」
「かかってます!ッ…背中、反ってるじゃないですか…!!」
「でも重心はまだ前。覚えておきなさい。これぐらいでギブアップしていたら恥ずかしいわよ」
 常に思いやりを忘れない鏡先輩。
 二人の先輩による親身な指導は今までずっと続いてきた。


「(練習でやってきたことが、確実に身についている…!)」
 と、実感できるようになったのは、美月が大会に参加するようになってから。
 体に覚えこまされた技術は、現実に何度となく美月の窮地を救った。
「…先輩に感謝しないと」
 自分の回想をこう締めくくって目を開けた時、美月の腕が不意に両側から掴まれた。
「あら杉浦さん」
「ここに居たんですの」
 美月を見下ろす二人の顔には、普段通りの微笑が湛えられている。
「あの、先輩、何か…?」
「杉浦さんがまた決勝に残った、って聞いたから」
「今度は優勝できるようにと思って、特訓を考えてきましたの」
「いえ…その、だから、決勝に備えて今日は体を休めた方が良策かと…」
「でもまだ試合始まるまでに1日あるんでしょ?」
「ですが、今までの疲れが…」
「大丈夫、疲れなんて残しませんわ」
 美月を掴む腕には、もうしっかり力がこもっている。
「うんうん、今日は特別優しくしてあげるから」
「え…ちょっと、ま、待ってくださ、待って…!」

今夜も、道場には遅くまで美月の悲鳴が響き渡った。
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by right-o | 2007-10-03 23:46 | 書き物