「V9クラッチ」 杉浦美月VS越後しのぶ

 東京、国立代々木競技場第二体育館。
「さて、行きますか」
 美月は、自分の試合を終えてTシャツ姿の神田を伴い、
 これからセミファイナルのリングへ上がるところである。
「ちょっとそこの」
 控室を出、設営された入場ゲートの裏まで来た時、後ろから不躾な声がかかった。
「間違っても負けるんじゃないわよ。苦戦してもダメ。一蹴しなさい」
 内田であった。
 彼女はこの後、メインイベントへの出場を控えている。
 既に着替えを終え、手足を入念に曲げたり伸ばしたりしながら、
 内田は、自分を完全に無視した体の美月へ一方的に言葉をかけ続ける。
「もしあんたが負けたら、私の試合の意味が無くなるかもしれないんだから」
 この次のメインは美月への挑戦者決定戦であり、その出場者に内田も名を連ねているのだ。

 ここ一カ月は谷間のシリーズであった。
 最終戦の今夜、組まれているタイトルマッチはジュニアのみで、
 専らヘビーとタッグのベルトへの挑戦者を決めることがシリーズそのものの主題となっていた。
 そうなると、勢いどうしても現王者たちがカードから浮いてしまう。
 結果、美月対越後というヘビーとタッグの王者同士の対戦カードが組まれることとなった。
 特にテーマの無い試合ではあるが、それでももし越後が美月から3カウントを奪うようなことがあれば、
 その後の挑戦者決定戦の結果がどうあれ、美月としては越後を無視できなくなる。
 それが内田には少しだけ面白くなかった……のだが、
 美月に言わせれば、他人の心配の前に自分の心配をしてろというところであった。
 

 王者を迎える熱気と歓声に包まれてロープをくぐり、赤コーナーに上ってベルトを掲げる。
 まずは観客に対して、次いで大きなアームで操作され空中に浮いているテレビカメラに対し、
 右手で掲げたベルトを左手でそっと撫でて見せた。
 貫録というか慣れというか、戴冠当初に比べれば随分とベルトがサマになってきた美月である。
 空中で反転しつつコーナーから飛び降りると、
 こちらも同じようにタッグのベルトを掲げた越後の顔が目の前にあった。
 互い、無表情。
 見上げる美月も見下ろす越後も、大した試合ではないと言わんばかり、
 素っ気ない表情を崩さなかった。

 ゴングが鳴ってからも、二人は静かに腰を落として向かい合い、まずは落ち着いた立ち上がりと思わせる。
 じりじりと距離を詰める両者の手が触れるか触れないかという時、
 美月は越後の左側をすり抜けて越後のバックを取った。
 瞬間、越後は体を捻じって美月の首を左脇に捉え、そのまま自分の前に投げようとする。
 と同時に右腕で美月の両足を抱えみ、マットに転がした美月を上から完璧に押さえ込む。
「……くっ!」
 意表を突かれたものの美月はどうにか跳ね除けてみせた。
 しかし立ち上がりかけたところで今度は前から首を抱え込まれ、流れるように首固めへ。
 この流れはなんとなく想定できていたため、美月は冷静に重心を移動させて相手を転がし、
 逆に越後の肩をマットにつけた。
「ちっ」
 あっさりと体を解いた越後は、立ち上がった美月へやや助走をつけた強烈なエルボー。
 これが美月の顎に入った。
 ふらつきながら踏み止まった美月は、いいようにされているフラストレーションをぶつけるため、
 お返しとばかり肘を振りかぶる。
 だがここまでが越後の狙いであった。。
 美月が振るった右腕へ根元から自分の右腕を絡め、体重をかけて引き倒しつつ右足を絡めて固める。
 これは打ち合いに意識が向きつつあった美月を巧妙に陥れ、完全に不意を突いた。
「……ンのッッ」
 どうにか足を振りほどいて肩を上げ、思わず美月はレフェリーにカウントを確認する。
 目まぐるし過ぎて耳が頭についてきていないが、とりあえず目の前の手は指を2本立てていた。
 観客と同時に心の中で安堵のため息を吐きつつ、次に対戦相手へ目を向ける。
 越後はロープへ走っていた。
(もう引っ掛からない……!)
 意識して頭を急速冷凍させた美月は、
 越後が反動を受けて走り込んできたところを見計らい、カウンターのトラースキック。
「ぐっ」
 下から顎を蹴り上げられながら、越後はそのまま再度ロープまで後退し、
 もう一度反動をつけて向かって来た。
 これを美月は、地面すれすれからタックルを仕掛けるようにして越後の背後から脇の下に張り付き、
 口のマウスピースを噛み潰す勢いで全身に力を込める。
 越後に抵抗する間を与えず、捻り式バックドロップで投げ捨てた。
 更に頭からマットに叩きつけられた越後が起き上がるところへ、相手の膝を踏み台にしての顔面蹴り。
 そこから越後の首元をへ膝を乗せてカバー。
 一気呵成に攻め込まれ越後だが、どうにか美月を跳ね除けた。
 それでもダメージの残るところを、美月は掴んで引き摺り起こそうとする。
 そうしながら、これで終わりとばかりに観客席を見まわして見得を切った。
「……舐めるなッ!」
 と、次の瞬間、美月の腕を振り払った越後は、屈んだ状態から飛び上がっての延髄斬り。
 側頭部を直撃された美月は両膝を折って前に崩れ落ちた。
 すかさず越後は美月を引き起こし、パワーボムの体勢。
 高々と持ち上げてから、腰を折る形で前方へ叩きつけ、がっちりと固める。
 これはどうに美月が肩を上げたが、越後は更にもう一度パワーボムの体勢へ。
「終わりだっ!」
 越後は宣言してから美月を抱え上げ、今度は旋回式のパワーボムを狙ったが、
 上げられたところで美月は両足を越後の脇に引っ掛けながら越後の背中を滑り下り、
 前方回転エビ固めに切り返す。
 これを越後は。逆に体重の軽い美月の両足を抱え込みつつ体を起こし、
 反対に美月の上に乗る形で押さえ込んだ。
 しかし美月は再度両足に力を入れて元の体勢に戻そうとし、対して越後は逆らわず、
 自分を引き倒そうとする力を利用して後ろに転がって起き上がる。
「このッ」
 そして立ち上がろうとしている美月へローキック。
 美月はこれを正面から受け止め、左手で蹴り足を受け止めながら右手で越後の首を抱え込み、
 首固めで強引に押さえ込んだ。


 終わってみれば5分と少しの短い試合であった。
 3カウントと同時に跳ね起きた越後は流石に渋い表情を浮かべ、美月は小さく舌を出す。
「……格下のあしらい方がうまくなったな」
 そんな皮肉を言いながらも越後は試合後に自ら美月の手を掲げてくれたが、
 美月としては内心冷や汗ものの試合であった。
(まあでもこれで、ややこしいことにはならないだろうし)
 ひとまず内田の要求には応えることができたようである。

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by right-o | 2012-10-08 22:31 | 書き物