次に向けて

 美冬戦の翌日。
 昨夜、何度目かの病院送りをくらった美月は、すっかり日が高く上った頃に病室で目を覚ました。
「………」
 あれ、何だっけ。
 仰向けになったまま、美月は真っ白い天井を黙ってぼーっと見上げていた。
 その内になんとなく頭頂部に痒みを覚え、頭に手を伸ばそうとした時、
 それを横からにゅっと伸びて掴む手がある。
「おいおい、起きたなら声ぐらいかけてよ」
 ベッドの傍に座っていたジョーカーレディであった。
 自分を覗き込むジョーカーの顔を不思議そうに見つめてから、美月はこう、のたまった。
「あれ、あなた何でここにいるんでしたっけ?」
「何でって……」
 悪気無くスッとぼけてみせる美月に、ジョーカーは苦笑しながら肩を落とした。
「美月のタイトルマッチを見に来たんだよ。っていうか、どこまで覚えてる?」
「どこまでって……ああ」
 言われてみれば段々と思いだしてきた。
 美冬とタイトルマッチをしていて、反則負けになりかけて、何故かリングサイドにジョーカーがいて、
 言われたから仕方なく腕十字を解いて……
「あ……、そうか、頭から血が出てましたね。それでまた私は病院送りになったんですか」
「そうそう、……だから頭を触ろうとするな」
 ついまた美月の手が頭に伸びようとしたところを、ジョーカーは慌てて制した。
「前髪の生え際から頭頂部に向けてざっくり切れてた。
 傷口を縫うために髪を剃ろうとするもんだから慌てて止めたよ。
 ただその分きちんと縫えてるかわからないから、あんまり触らない方がいい」
 そう言って、ジョーカーは個室に備え付けてあった手鏡を取り上げると、
 横になっている美月の髪をそっと掻き分け、傷口を鏡越しに見せてくれた。
「さて、ちょうどよかった。そろそろ飛行機の時間だから、帰らきゃいけなかったんだ。
 その前に少しでも話せてよかったよ」
 ジョーカーは大きく伸びをしてから立ち上がり、個室の壁に掛けてあったコートを取り上げ、
 帰り仕度を始める。
「あ、もう……」
 と、ベッドから起き上がりかけた美月の上体に、ジョーカーがそっと自分の体を重ねて軽く抱きしめ、
 再びゆっくりとベッドに寝かしつけた。
「見送りとかはいいから、もうちょっと寝てなよ。あんな試合の後だしね」
 暇潰しのために読んでいた雑誌類をぽいぽいと旅行鞄に詰めたジョーカーは、
 最後に改めて美月へと向き直った。
「突然来て突然帰るようなことになって悪いと思ってる。
 実は元々日本まで来るつもりは無かったんだけど、ちょっと私にも事情があってね」
「とんでもない。少しでも会えて嬉しかったですよ」
 そう言って美月が差し出した右手を、ジョーカーはしっかりと握り返した。
「おっと、そろそろ本気で時間無いわ。それじゃ、良い試合だったよ。凄く、励みになった」
 手を振って病室のドアに手をかけたところで、ジョーカーはまた不意に美月を振り返った。
「そうそう、そこに励ましのお便りが纏めて置いてあるから、全部しっかり目を通しておくように。
 反則負けなんて望んでなかったってファンは、私だけじゃないんだよ。それじゃね」
 綺麗に片目をつぶって見せ、ジョーカーはドアの向うに姿を消した。
(……本当に行っちゃった)
 ふと寂しさを覚えた美月は、それを紛らわそうと、重たい体を起こしてベッドに腰掛ける。
 そう広くも無い個室の中、ベッドの前に置かれたテーブルの上には、
 ジョーカーが言ったように、美月宛に送られてきた激励のメールを印刷したものの束と、
 金色に輝く大きなベルトが置かれていた。
 美月は、昨夜の試合で勝ち獲ったベルトを持ち上げようとし、
 指をプレートの縁に引っ掛けただけで止めた。
 指先から伝わる感触だけでもかなり重く、疲れた体では持ち上げるのも物憂い。
 代わりに、美月はメールの束を手に取って上から読み始めた。
 と、一枚目を読み終わったところで、
 その後ろから、紙こそA4コピー紙だが明らかに手で書いたと思われるものが出てくる。
 クセの強い筆記体で書かれた英文は美月には読めなかったが、
 最後の署名だけはなんとか読むことができた。
 ジョーカーレディ、と。
「……ゆっくりしていけばよかったのに」
 紛らわせるどころか、寂しさが募ってしまった美月であった。
 が、何故ジョーカーが急に来て急に帰って行ったのか、
 実はその理由がちゃんとそこに記されているのだが、美月がそれを知るのはもう少し後の話になる。


 同じ頃、団体の社長室。
 大きな樫の机を挟んで、社長と秘書が向かい合っていた。
「昨夜の試合、ネット上などの評判はなかなかいいようです。
 DVDの売上はそれなりに期待できるのではないでしょうか」
「うん……まあ、それは何よりだが」
 秘書の報告を受けても、社長の表情は今一つ晴れない。
「話題になるほどの試合内容を残せるというのも大事なことだが、
 今我々が求めているのは、試合内容に関わりなく、名前だけで客を呼べるスターだよ。
 可能な限り、そういう人間があのベルトを巻いていなければいけない」
「しかし、今現在この団体にそういった人物はいないのではないですか」
 秘書は、正直に思った通りのことを口に出して指摘した。
「いや、いないわけじゃない。休養中なだけだ」
「鏡さんと、ライラさんのことですか」
 この団体の二枚看板であった鏡とライラは、二人揃って長期の休養中なのである。
 その間に比較的若手の中から突出して来たのが、伊達であり、美冬であり、美月であった。
「ひとまずはあの二人が戻って来るまで待っていればいい。
 それまでの間は、どうにか我々の方で仕掛けをして話題作りをするしかないよ」
「スター不在という今の状況は、新たなスターが生まれる好機とは言えませんか?」
「まあ、伊達にはその兆しがあったような気がするけどね。その後ベルトを巻いた二人は厳しい。
 その他にも特にこれという人材はいないと思うね。今のところは」
 社長は、自分の団体に辛口の評価を下した。
 直に彼女たちに接している時はまた違うが、経営者としてはこう言わざるをえないのだろう。
「わかりました。それでは、さしあたってどんな仕掛けをいたしましょうか」
「とりあえず、彼女の謹慎を解いてくれ。彼女なら出てくるだけで話題になるだろう」
「謹慎というと……ああ」
 秘書は何かに思い当った風で、ちょっと渋い表情を浮かべた。
「いいんですか?またテレビ放送中に何をやらかすか……」
「まあ、生放送は怖いが……。
 そうでなければ、最初から番組のレーティングを上げてもらうなりすればいい。
 流石に18禁は困るが、R指定までなら話題作りとして目をつぶろう」
「わかりました。それでは次の興行から参加させます」
「そうしてくれ。あとは彼女の方で勝手に目立ってくれるだろう」
 秘書が一礼して部屋を出て行ったあと、社長はイスの背もたれに体を預け、
 大きな溜息を吐いて天井を仰いだ。
「さて、当面はこれでいいとしても、その次は……」
 経営者としては、美月は頭の痛くなるタイプの王者であった。

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by right-o | 2012-02-05 21:18 | 書き物