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美月対美冬 入場まで

 東京・国立代々木競技場第二体育館。
 手頃な広さかつ、すり鉢状に座席が配置されているため、
 安い外側の席でも不自由なくリングまで見通せる。
 そういった理由でプロレス観戦には適しているが、収容人数は三千人をすこし越える程度の
 最高位タイトルを争うには小さすぎる会場が、美月と美冬が二度目に戦う舞台であった。

 しかし、美月にはそんなことを気にしている余裕が無かった。
 最低限のウォームアップを終えた美月は、
 タオルを被ってベンチに座り込み、ただただ目を瞑ってその時を待っている。
 怖くなってきた。
 美冬をギプスでぶん殴って挑発したのは、半分はただ勢いに任せた行為であった。
 感情を表に出さない美月であっても、というより、表に出さないからこそ、
 美冬戦は大きな屈辱として内面に黒々と渦巻いていた。
 同じ目にあわせてやる、と美冬に言った言葉は本心からのものである。
 ただし、今すぐに行動を起こすべきなのか、
 そして行動を起こしたとしてそれがどういう結果になるのか、
 冷静に考えようとする部分も頭の中には存在した。
 この一カ月間、美月はそういった冷静な心の声を無理矢理感情で押し殺してきたのだった。
 試合が近づくにつれて余計なことは考えなくなったが、今度は感情がマイナスの方向に働き始めた。
 前回と違って連戦による疲労の無い状態で、
 前回以上に気持ちの入った柳生美冬を相手にしてどうなるか。
 一度悪い方向に想像が傾くとキリが無かった。
 だがもう後には引けない。
(悲鳴を上げさせてやる……っ)
 怖気を憎しみで塗りつぶし、美月はタオルを取って立ち上がった。

「よし、行こう美月ちゃん!」
「行きましょう先輩!」
 控室を出ると、相羽と神田が待ち構えていた。
 二人はこれからセコンドについてくれることになっている。
 今回ばかりは、この二人の善意と無邪気な声援がありがたかったが、
 もう一人、傍の壁に背中をあずけて美月を待っていた人物がいた。
「美月」
 内田は、入場ゲートの方へ足を踏み出しかけた美月の背中へ声をかけた。
「あんなの相手に意地を張って怪我をしても、何もいいことは無いのよ」
 美月は、普段以上に感情の無い顔をして肩越しに振り返り、去って行った。
 わざと無表情を通したのではなく、沸き起こった感情に顔の方が反応しきれなかったのだ。
 何で、人が必死で忘れようとしていることを今更思い出させるのか。
 老婆心に対する非難と、内心を見透かされていることへの諦観と、
 ほんの少しの感謝がない混ぜになった表情などはとても作れなかったし、
 この内のどれを優先して表すべきか咄嗟に選択することもできなかった。

 
 入場ゲートをくぐるなり、物凄い熱気と歓声の風が美月たちを包んだ。
 収容人数が少ないだけに、客席は立ち見まで含めて完売となっているだけでなく、
 こんな一般受けしづらいカードを観に集まった観客たちだけあって、普段よりずっと客層が濃い。
 両脇からひっきりなしに声援が飛ぶ中、美月は一歩一歩ゆっくりとリングへ向かい、
 一つ大きく息を吐いてからロープを跨いだ。
 美月が、神田と相羽を左右に従えてコーナーに落ち着くと同時に、
 真剣を切り結ぶ音が会場に響き渡った。
 それから三味線による前奏が始まり、柳生美冬の入場が始まる。
 ガウンの代わりに陣羽織を羽織り、伊達から奪ったベルトを右肩に掛けた美冬は、
 こちらも同期の草薙みことを従えて入場して来た。
 美月以上に表情の乏しい美冬は、いつも通りに堂々と、だが無感動に、初めての防衛戦へ挑む。
 対して、美月の冷静さは上辺だけのものであった。

by right-o | 2012-01-09 21:55 | 書き物