「無道」 杉浦美月VS柳生美冬
メインイベント、世界王座挑戦者決定トーナメント決勝戦のリングへ、
美月は静かに足を踏み入れた。
入場ゲートをくぐる直前、相羽や神田に励まされ、上戸から自分の仇討ちを託され、
内田から無愛想に背中を押されて送り出された美月は、
ようやくモチベーションが高まっていくのを感じた。
(まあ何事も勝って悪いということはないし)
これまでの二戦は、単に格下相手に負けられなかっただけのこと。
伊達への挑戦権という賞品は決して魅力的なものではなかったが、
それでもトーナメントを制したという実績が残るのは悪くないかもしれない、
というぐらいには考え直してみた。
決勝戦の相手は柳生美冬。
美月対近藤戦の直後、同期である草薙みことを退けて上がってきた彼女は、
同じく同期である伊達の背中を追いかけることに執念を燃やしている。
内面にかなり温度差のある二人は、
それでもゴング直前、どちらからともなく右手を差し出した。
「健闘を」と美冬、「お互いに」と美月。
別段好きでも同士でも嫌い同士でもない二人は、
お互い、相手がここまで上がってきたことに対して素直な敬意を表した。
この時は、まさかこれからの試合が、それぞれが初めて経験する遺恨試合になろうとは、
当事者同士全く思いもよらないのであった。
ゴングが鳴ると、まず二人は睨み合ったままでリングに半円を描いた。
一見様子見の姿勢だが、それぞれに思惑が違う。
美月は、試合を長引かせるため故意に前へ出ない。
美冬とみことが戦った準決勝第二試合は紙一重の接戦であり、
また試合順が第一試合よりあとだったことから、決勝までの休憩時間が短かった。
そこを突いて長丁場の持久戦でスタミナ切れを狙う美月は、
ゆったりじっくりした展開に持ち込みたい。
対して美冬は、自分の方に余力が少ないことを認識しているため、
積極的に仕掛けて短期決戦で仕留めてしまいたい。
そのための、一気に仕掛ける糸口を探っている状態だった。
お見合状態から、やはり美冬が動く。
前へ踏み出して組み合う姿勢を見せたのだ。
そういうことなら、と美月も前に出、両者ロックアップの体勢。
ここは美冬が体格を生かして美月をロープへ押し込み、レフェリーが割って入る。
この組み合った両者の別れ際というのがプロレス序盤の見せ場の一つであり、
どちらかというと美月が望むじっくりした展開に近い。
が、ここで美冬はセオリーを無視して突っ掛けた。
「ぐふっ」
レフェリーを無視して美月のボディに膝を入れ、
抗議の声が上がるのを待たず反対のロープへ振り飛ばす。
跳ね返ってきたところを更にニーリフトで追撃しようと試みた。
が、続けて腹部へ膝を入れられたかに見えた美月は、
自分から美冬が振り上げた右膝を飛び越えていた。
美冬の右足を巻くように前転しつつ、
後ろから股の間に手を入れて引き倒し、スクールボーイに固める。
「ちっ」
カウント1で美冬が返した反動を受け、
美月はそのままごろごろと場外まで転がって退避。
「ふー……」
お腹を押さえつつ呼吸を整え、間合いを外す。
最近、打撃主体の相手と続けてシングルで当たっている美月だが、
美冬は近藤より体格も経験も勝り、伊達を相手にして美月以上に善戦したレスラーである。
迂闊にペースに乗せられるわけにはいかなかった。
のらりくらりと美冬の攻めをはぐらかしつつ試合を進めていた美月だったが、
そんなゲームプランどころか、試合そのものが根底から崩れる瞬間が突然やってきた。
ようやく美冬のニーリフトがカウンターで美月を捕らえ、
身体がマットから浮き上がるほどの衝撃を受けた美月は、マットへうつ伏せに倒れる。
(これでもまだ、伊達さんとの試合を思えば……!)
内臓が裏返ったかと思った伊達の膝に比べれば、まだまだマシ。
痛みに変な耐性が出来つつある美月は、そんなことを考えながらマットに右手をつき、
起き上がろうとする。
ここで美冬の頭に閃くものがあった。
おもむろに左足を滑らせ、美月の右腕へローキックが走る。
「あっ」
と、試合を見ていた全員が固まったあと、
一瞬遅れて美月が右肘を押さえてのたうち回っていた。
「っぐ……」
場外に転がり落ちた美月は、肘を抱いてその場に蹲った。
腹部への膝とは全く異なる痛みと違和感は、
身体の一部が変形したのではないかという恐怖感へと変貌し、次第に心の中で広がっていく。
だが幸か不幸か、負傷について深刻に考えるだけの時間が、美月には与えられなかった。
躊躇無く美月を追ってきた美冬が、
美月の頭を掴んでコーナーポストへと投げつける。
咄嗟に頭を反らせた美月は、右肘から硬い鉄柱に激突した。
「あぐっ」
そのまま鉄柱にもたれて動けなくなった美月の右腕を掴み、美冬はさらに鉄柱へ叩きつけた。
そこから腕を放さず、強引にリング内へ引っ張り上げ、コーナーへ振る。
「せっ!」
コーナーにもたれているところへの強烈なミドルキック。
これをまた、美月は反射的に腕を上げて受けてしまう。
美月は痛みに膝をつき、ついで前に崩れ落ちた。
(まずい、かな……)
肘の痛みが、今までの試合で受けてきた一過性のものとは違う。
あともう少し冷静になれば、試合を棄権するべきかという考えも、
打算的な美月の頭には浮かんできたことだろう。
が、そんなことを考える間を与えないほど、美冬の攻めは苛烈を極めた。
腕を捻り上げながら美月を強引に立ち上がらせると、
リング中央に引っ立てて蹴りの連打。
まずローキックが太股を叩き、次いで胸板へミドルキック。
さらに脇腹へのミドルは、爪先が美月の胴にめり込んだ。
いずれも腕を使って防ぐことのできない美月は、滅多打ちにされるしかない。
そして側頭部へのハイキックから、ふらついたところで両足を刈るローキック。
これで尻餅をつかせたところへサッカーボールキックを入れると、
美月の正面へ回って軽くロープの反動を受け、顔面を目標にしたローキック。
これをなんとか自分からマットに倒れることで威力を減じた美月は、続くカバーを2カウントでクリア。
体は悲鳴を上げていたが、何故か美冬に蹴られるたび、
美月の精神はより強硬に負けることを拒否し始めた。
(舐めるなッ)
ここでロープへ飛んだ美冬に対し、その右足を狙って滑るようなカニばさみ。
顔からマットに突っ込んだ美冬が起き上がる間に、美月は背後のロープに飛び、
膝をついた美冬の背後からシャイニングウィザード。
さらにそのまま相手を跨いで正面のロープを背にし、正調のシャイニング前蹴り。
相羽戦で閃き、続く近藤戦を決めたコンビネーションである。
足だけを使った反撃から、なんとか腕の痛みをおしてカバーへ。
だが美冬もこれをカウント2で返した。
「ああ、もうっ……」
右腕をだらりと下げたまま、美月は左手で美冬の頭を掴んで引き起こしにかかる。
この時にはもう、自分の痛みより相手を痛めつけることの方を考えていた。
しかし、ここまでだった。
美冬を掴んでいた左腕を引かれ、美月はマットに這いつくばった。
脇固めの要領で美月を捕まえた美冬は、左腕を自分の両足で挟んで固定し、
両手を使って下になっている美月の右腕を取り、逆に曲げ始める。
「………!?」
「諦めろ……っ!」
背中越しに、美冬は美月の右腕を脇の下に固定し、さらに後ろへと締め上げた。
「……ふざけるな」
顔から血の気が引き、冷や汗がふき出しても美月は負けを認めない。
かといって場所はリング中央、しかも相手は二回りは自分より大きい。
普通に考えれば完全に詰みであった。
それでも、美月はギブアップする素振りも見せない。
美冬も、ああそうですかとばかり更に絞り上げる手に力を込める。
もはや美月は、痛いものを痛いと感じていなかった。
「もういい、取り返しがつかなくなるわ!さっさとギブアップしなさい!!」
いつの間にか、内田がリング下からそう叫んでいたが、美月の耳には全く届いていない。
結局、業を煮やした内田が無理矢理試合に介入しようとする直前、
見かねたレフェリーが試合を止めた。
「動くな!」
美冬を押しのけるようにして飛び込んできた内田は、
まだ起き上がろうとする美月を無理矢理押さえつけ、バックステージに向けて担架を要求した。
「嫌、だ……」
「わかったから、お願いだから今はじっとしてなさい」
コイツのどこにこんな負けん気が隠れていたかと呆れながら、
内田は子供をあやすようにして美月を抱き、どうにか担架の上に載せてやる。
こうして、美月は何度目かの病院送りとなったのであった。