「サイン」
とある大型書店のイベント用フロア、その控え室。
「……うーん」
いつもの「控え室」とは違う、畳敷きのいわゆる楽屋の座布団に座り、
美月と相羽が難しい顔をして向かい合っていた。
「美月ちゃん、メキシコで経験あったりしないの?」
「そう言われれば会場外でファンに囲まれて十数枚書いたことはありますが、
今回とはまた別の体験というか、やっぱりその、日本とメキシコでは勝手が……」
今日これから、二人にとってデビュー以来初めてのサイン会が行われるのであった。
二人にとって急遽決まったイベントだった。
元々はジューシーペア、内田&上戸のサイン会が予定されていたのだが、
この二人、先日のトーナメント初戦にて仲良く病院送りとなったのである。
試合そのものはどちらも激闘そのものだったのだが、
その最後の部分だけを見るならば惨敗と言ってよかった。
内田はみことの兜落しで頭からマットに突き刺さり、
上戸は美冬の雷迅蹴を顔面で受け切って前のめりに轟沈。
これに伊達を加えた三人で「えげつない世代」と呼ばれる、
同期二人の魅力が最大限に発揮された試合であった。
内田・上戸とも既に回復してはいるものの、負傷箇所が頭部ということで大事をとって暫く休養。
その代わりに選ばれたのが美月と相羽なのだった。
サイン会どころか、こういうファンとのイベント自体が初体験な二人は、そろって緊張している。
「そ、そういえば、美月ちゃんのサインってどんなのだっけ?」
「そういう和希さんはどうなんですか?」
ちょうど机の上に置いてあった書店の便箋とボールペンを手に取り、
二人ともすらすらとペンを走らせて自分のサインを書いてみた。
「ボクのは昔からこれだけど……」
相羽のサインは、単にフルネームを崩して縦書きしただけのシンプルなもの。
「ふっ、相変わらずサインまで普通ですね。……と言いたいところですが」
美月の場合は筆記体で「Mitsuki.S」。
元々は美月も相羽と同じく漢字を崩して繋げただけのものだったが、
メキシコ時代、せめてアルファベットで書こうとして変えたサインを、
帰国後も続けて使っているのだった。
「……ま、サインなんて単純な方がいいよね。ファンの目の前で書いて間違えたらカッコ悪いもんね」
「……ですよね」
ファンサービスという面では経験も発想も大差無い二人であった。
「っていうかホント間違えて書いたりしないかな。いっそ事前に書いといて渡すだけならいいのに」
「事前に書くどころか色紙に印刷していった人たちはいましたっけね。
後で八島さんにシメられましたけど。
まあファンにしてみれば、会話なんかしつつ目の前で書いてもらえるからいいんでしょう。
それに『○○さんへ』とか、サイン以外にも一言書いて欲しいってリクエストがあるかもしれませんよ」
美月の言う「事前にサインを印刷していった子分」をシメた八島には、この手のリクエストが多い。
彼女の場合、『何か好きな言葉を書いてください』と言われることが大半で、
八島も何を求められているかわかっているため、
「喧嘩上等」とか「世露死苦」とか一言サインに添えてやる。
「え、座右の銘的なこと?えーっと……特に無いんだけどなぁ」
「無い、です、ね……」
頭をかきながら悩む相羽を見ても、今日ばかりは笑えない美月であった。
こういう時に強いのが(色んな意味で)古風なレスラーたちである。
「一撃必殺」柳生美冬、「明鏡止水」草薙みこと、「常在戦場」RIKKA、等。
ちなみに彼女たちのサインは筆ペンで書かれているが、本物の筆を差し出しても書いてくれるらしい。
その他、今現在は「宇宙キター!」の藤原と、「私が守ってあげる……」の富沢は、
一定期間ごとでサインに添えられる文言がころころ変わったりする。
「何か考えた方がいいんですかね?」
「って言われも……」
そうこうしている内に控え室のドアがノックされ、
時間が来たことを知らせるスタッフが顔をのぞかせる。
もうなるようになれ、と覚悟を決めて部屋を出る二人であった。
二人が会場に現れた瞬間、中型のイベントスペース全体にどよめきが起こった。
(多いよ……!!)
明らかに3桁は下らない人数が集まっている。
まあ数十人だろうと予想していた二人は、必死に驚きを隠しつつ、
並んで置かれている机に腰を下ろした。
思ったより人が集まって嬉しいという思いは、この場では緊張の高まりに押しつぶされて沸いてこない。
それではただ今より開始いたします、という声とともに、集まった人々が二人の前に列を作り始めた。
開始から30分後。
当初はガチガチだった美月にも、ようやく気持ちの余裕が出てきた。
応援してます、とか、頑張ってください、と声をかけてくれるファンにも、
次第にきちんと応えられるようになってくる。
同時に、「ど、どうも……」としかいえなかった最初の数人には悪いとも思ったが。
それに引き換え。
「ありがとうございますっ」
と、自分と同じく緊張していたはずなのに、一人目から元気よく応対していた相羽のことは、
ちょっと見直す思いであった。
応援されれば素直に反応してしまう、相羽の人の良さが滲み出ていた。
その辺りを含めたリング内外の人間性を反映してか、
美月と相羽に並んでいるファンは、よく見るとそれぞれで毛色が違う。
一言で言うと、美月の方が「濃い」。
相羽に並んでいる列は、たまたま買い物に来ていたらサイン会やってたので参加してみた、
みたいな、軽い客が多い。
根拠としては、ほとんどの人が傍で配っている色紙を片手に相羽のところへやってくる。
対して美月の列は、Tシャツ等持参したグッズにサインしてもらおうとする輩が多い。
相羽列に並んでいたあるファン(?)のように、
「プロレス見たことないけど、
下の階に貼ってあったポスターの写真が可愛かったからサインもらいに来ました」
というような男は、間違ってもいない。
驚きながらも「これからは是非、会場へ見に来てくださいね!」と笑顔で返す相羽を見て、
正直なところちょっと羨ましい美月であった。
ただ、並んでいる人数では美月も負けていない。
あと、女性は美月列の方が多い。
ただし女性も濃い人が多かった。
「身体は大丈夫?」と、娘か何かのように心配してくれる年配の女性とか、
隣を思いっきり指差しながら、「あいつには負けないでください」と言った同年代の女性とか。
ヤな言い方をすれば、思いっきりマニア受けしていた。
美月は、自分と相羽のファン層を冷静に分析して、心の中でため息を吐く。
(ま、わかってましたけどね)
人を引き寄せる力、言い換えればスター性は間違いなく相羽の方が強く持っている。
これまで地味だ地味だと言われながら、それをネタにして話題にされてきたのだ。
対して美月は、何もしなければ本当に地味なまま注目されずに終わるタイプである。
だからこそ、帰国後はどうすれば一番目立てるかを自分なりに考えてきた。
こればっかりは現実として認めるより仕方が無い――と思いつつも、
やっぱり納得仕切れなかった点が、相羽へ辛く当たる原因でもある。
そんなこんなで色々考えながらサインに応じていた美月の前に、一枚の色紙が差し出された。
「トーナメント、頑張ってください!」
小学校高学年ぐらいの男の子であった。
一瞬、並ぶ列を間違えたのかと思ったが、トーナメントのことを言うのだから間違ってないのだろう。
(この年齢で私のファンって、将来が心配だな)
そんな無茶苦茶なことを考えながら、美月は何十枚目かのサインを書き、
その下に、「普通に勝ちます。」と書いて色紙を返し、子供の頭を撫でてやった。