『エンジェルカップ』最終日第三試合 小川ひかるVS榎本綾

「さて、決勝だが。問題は一つだな」
 最終戦の前日、小川とジョーカーは練習する気配も見せず、
 無駄にケータリングの充実した食堂で話し込んだ。
「ビューティー市ヶ谷。アレをどうするかに尽きます」
「そう。アレさえいなけりゃ何てことはない」
 二人の見解は一致していた。
「最悪、どっかで襲って試合が終わるまで大人しくしててもらうか。
 それぐらいやっても文句は出ないだろ」
「話題にもなりますし、ウチの社長としてはむしろ喜ぶでしょう。でも……」
 小川は、少し間をおいて真顔で言い切った。
「私はクールかつエレガントに勝ちたいです」
「……何か変なものが伝染したな。まあ、何か考えがあるならいいが」
 妙に清々しい顔で立ち上がった小川は、ジョーカーを振り向いて更にこう漏らした。
「最初に戦ったソフィアだって弱いとは思いません。まして私はあの真壁さんに勝ちました」
 あの、という短い言葉には、精一杯の敬意が詰まっているようである。
「これで私が彼女に負けたら……それはウソだと思いませんか?」
 小川らしからぬ真っ直ぐな言葉だが、偽りのない本音だった
「ふん、まだまだ若いな」
「ええ、おばさんより二つも年下ですよ」
 この後、即猛ダッシュで逃げた小川をジョーカーが追いかけ回し、
 二人は約二時間のランニングで最後の練習を終えた。


 そして最終日第三試合目のリング上、先に入場したた小川は、
 相手が入場して来る前にマイクを取った。
「先日、真壁さんは市ヶ谷の方に苦言を呈しました。
 私は、あなたの方に苦言を呈したいと思います。榎本綾さん」
 綾の入場曲が鳴らず、自分の行動が容認されたことを確認して続ける。
「あなたに負けたターニャも、野村さんも、皆一生懸命この大会のために頑張ってきた。
 その気持ちをあなたは打ち砕いたんです。他人の力で!」
 ここであと一人名前をあげるべきだった気がしたが、小川は思い出せなかった。
「あなたが一人前のプロレスラーだというなら、そして人並みの良心があるなら、
 一人でリングに上がりなさい!」
 小川が言い切ると同時に綾の入場曲が鳴り響き、榎本綾――と、
 ビューティ市ヶ谷が長い花道の向こうに姿を現した。
 怒りに燃える市ヶ谷の手には、既にマイクが握られている。
「黙って聞いていれば好き勝手に……」
「やっぱりあなたは一人では何もできないのかしら!?」
 わざと市ヶ谷の言葉に被せるように、小川は声を張り上げた。
「アナタ、この私の話を……!!」
「保護者がいなければ何もできない、見た目通りの小学生なのかしら!?」
 あくまで市ヶ谷を相手にせず、黙って俯いたままの綾を問い詰める。
「……!!」
 ぎりり、と凄い音を立てて歯軋りした市ヶ谷に、会場中が固唾を飲んだ。
 しかし市ヶ谷は意外にも怒りを内に押さえこみ、いつもの超上から目線を取り戻し、こう言い切った。
「ふ、いいでしょう。この試合は黙って見ていることにしますわ。綾、あなたの成長を見せて御覧なさい!」
「うん。綾、……一人でできるもん!」
 これまた意外にも、小さな両目に精一杯の決意を湛えた榎本綾は、
 ついに一人でリングへ向けて歩き出した。


 綾の振り回すエルボーも、ロープに飛んでのヒップアタックも、
 小川はその場で動かずに受けきって見せる。
「もっと強く!もっと早く!そいつを黙らせるんですのよ!!」
 エプロンを叩き回しながら叫ぶ市ヶ谷の声になんとか応えようと、
 綾も出せる限りの力で小川を打つ。
「えいっ!えいっ!えいっ!!」
 そして体ごと飛び掛るようなエルボーで、ついに綾は小川を倒すことに成功した。
「決めなさいっ!!」
 起き上がる小川を待ち構えてロープに走り、今度は低く飛び掛ってのスライディングe。
 が、小川はこれを待っていた。
 起こした上体を再度マットにつけてこれをかわし、即座に両脇をすくっての横十字固め。
 綾がなんとかカウント2で返したことにどよめきが起こる間も与えず、
 即座にマットへ手をつき、低い姿勢のまま回転しての延髄斬り。
 間髪入れずもう一回転して勢いをつけ、蹴りつけた頭を横から両足で挟み込んで月食に固める。
「綾!!!」
 咄嗟に市ヶ谷がリング下からレフェリーの足を引っ張ろうと手を伸ばしたが、
 それよりも早く、綾は上に圧し掛かった小川を自力で跳ね除けて見せた。
「くっ……!」
 返されると思っていなかった小川の立ち上がり際目掛け、全体重をお尻に預けたヒップアタック。
 再度小川を倒した綾は、今度は先ほどとは逆に小川の後ろにあるロープへ。
「……!?」
 綾を見失った小川が無防備に上体を起こしたところへ、綾は後頭部へのスライディングe。
 そして動きを止めた小川へ、さらに正調のスライディングeが完璧にヒット。
「やりましたわ!!!
 市ヶ谷は両手を上げて歓喜したが、これを小川はギリギリで肩を上げた。
 だが、更に小川の立ち上がり際、攻めに気持ちが転換した瞬間を突いたカサドーラ。
「つ……ッ!」
 これまで他人に散々やってきたことを自分にやられた小川は、かなり際どくこれをクリア。
 更に走り込んできた綾に対し、小川はかなり身を屈めて脇をすり抜けつつバックを取ると、
 その軽い身体を高々と持ち上げて叩き落した。
「うぅ……!」
 それでもすぐに立ち上がって見せた綾へ、さらにもう一発バックドロップ。
 しかし、ふらつきながらも綾はまだ、立ってくる。
(やれば十分、できるじゃないの……ッ!)
 必死にエルボーで胸を打ってきた綾に、強烈なヨーロピアンアッパーカットのお返し。
 後ろを向いた綾の背後にがっちりと組み付き、角度をつけたバックドロップを決め、
 そのままブリッジしてフォールを奪った。


 ○小川ひかる (7分09秒 バックドロップホールド) 榎本綾

「ふぅ……」
 優勝した、という実感より、とりあえず目の前にあった試合に勝った、という感じだった。
 つまり、楽勝では無かった。
 綾は自分一人の力で小川を追い詰めたのだ。
(お陰で、あんまりクールには勝てなかったかしら)
 さて、ここは試合前にこき下ろした綾に謝り、健闘を称えておくところか……
 と思った小川がリング外に目をやると、
「あんな捻くれ者相手によく頑張りました!私の見込んだとおりですわ!!」
「うん…うん……」
「あなたが成長するために一肌脱いだこの私の期待に、あなたは見事に応えましたわ!」
 目に涙を一杯溜めた綾を市ヶ谷が慰め、その光景に観客は惜しみない拍手を送っている。
 そんな馬鹿な、と無粋なツッコミを入れる観客など一人もいない。
「はあ……」
 結局、試合に勝っても最後には全部持っていかれるのか、
 と、勝者は一人寂しくリングを下りた。

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by right-o | 2010-09-05 23:25 | 書き物