「ワンハンドバックブリーカー」「ガットレンチパワーボム」 楠木悠里VS森嶋亜里砂
この日、二人のレスラーがデビュー戦を迎えようとしていた。
「デビュー」と言っても、二人は新人ではない。
既に数年の濃密なキャリアを積んでいる。
全プロレスラーの目標であり、また複数の下部組織を持つこの団体では、
基本的に全くの新人を試合に出す必要が無いのだ。
この団体で新人が本当のリングビューを飾る場合、ごくわずかの例外を除けば、
それは「新人」というキャラクターを与えられた時だけである。
リング上、170cmを越える二人が向かい合う光景は絵になるものであったが、同時にありふれたものでもあった。
今まで何人もの、容姿、才能、そして体格に優れた有望株がこのリングに現れ、
そのほとんどが団体に定着することなく消えていった。
(いつも通りに…!)
(………)
頬を叩いて気合を入れる楠木悠里と、落ち着き払った森嶋亜里砂。
それぞれに別の場所から可能性を見出された若い二人は、
今、世界最高峰の舞台での第一歩を踏み出そうとしていた。
とはいえ、二人に許された試合時間はたったの5分であった。
世界中に放映されるこの団体の番組に、まだ海のものとも山のものとも知れないルーキーが登場できる限界である。
必然的に、試合はいきなりの打撃戦から始まることになる。
「おおおぉッ!!」
気迫のこもったエルボー合戦を制した楠木が、ふらつきながらコーナーまで下がった森嶋へ追い討ちをかける。
が、森嶋は楠木に激突する寸前で体をかわし、逆に相手の顔面をコーナーパッドに叩きつけた。
「ッ!」
すかさず無防備な楠木の腰へ肘を叩き込むと、続いて正面へ向き直らせて腕を掴み、対角線へ走る。
「ぐあっ!」
ほんの手前まで腕を掴まれていた楠木は、再度顔からコーナーに突っ込んだ。
そして今度は、肘ではなく森嶋の体全体が楠木の腰へ襲いかかる。
背中を向けている相手へ、串刺し式のショルダータックル。
これが実は森嶋にとって、時間内でできる精一杯のフィニッシュへの布石であった。
「このッ!!」
数分後、楠木の強烈なフロントハイキックが森嶋の顔面をとらえ、一万人を越える観客を沸かせる。
だがその後が続かなかった。
(っ……!)
すぐに引き起こして追撃したかったが、森嶋に攻められた腰が言うことを聞かない。
背を屈めたまま固まった楠木を見て、すかさず森嶋は立ち上がり様のニーリフト。
「ぐぅっ…!?」
体が浮き上がるほどの一撃を腹部に受け、たまらず楠木がうずくまる。
当然、森嶋はこの機会を逃さず勝負を決めにきた。
無理矢理立たせた楠木の左脇に自分の左肩を入れると、左腕を正面から相手の右肩へ回す。
その体勢から、森嶋は自分より大きな楠木を真上に持ち上げて見せた。
(受身っ!)
背中からマットに叩きつけられると思われた楠木の体は、森嶋が立てた左膝の上へ。
膝頭が容赦なく腰へと食い込んだ。
「!?」
仰け反って口を開いたまま声も出せない楠木へ、すかさず森嶋がカバーに入る。
しかし、カウントが聞こえて来ない。
「なっ…!?」
冷静に見える森嶋にも、初めての舞台に動揺する気持ちがあったのか。
投げ出された楠木の足先が、わずかにロープの下をくぐっていたのだ。
この瞬間、寸前まで迫っていた勝利が森嶋の手からこぼれ落ちた。
「くっ」
あるいは、わずかに楠木の体を動かして再度フォールに行けば済んだことかも知れない。
が、森嶋にも見栄はあった。
楠木を掴んで立ち上がらせ、仕切り直しとばかりにロープへ飛ぶ。
「うおおおおッ!!」
戻ってきたところへ、楠木が渾身の力で振り回した右腕が森嶋の頭を吹き飛ばさんばかりの勢いで炸裂。
昏倒しながらもすぐに立ち上がろうと四つん這いになった森嶋の胴を、
楠木の両腕が上からしっかり捕らえた。
這った状態の森嶋をサイドスープレックスの要領で引き抜いた楠木は、
そのまま背後に反り投げることなく、自分の真上で停止。
そこから両膝を折りつつ自分の上体を前に投げ出し、森嶋の体をパワーボムの要領で背中から叩きつけた。
高さを生かした豪快な一発に沸き上がる歓声の中、森嶋に折り重なった楠木の目の前で、
レフェリーの手が、ゆっくりと3回マットを叩いた。
試合後、楠木は客席に短くアピールしただけで早々にリングを後にする。
リングの上でじっくりと勝利の余韻に浸りたかったが、彼女はまだそんなことが許される立場にない。
(まだ、始まったばっかり)
楠木は、退場しながら、ぎゅっと強く握った自分の手を見つめ続けた。
長年夢見て追い続けた目標に向け、例え小さくとも確かな一歩を踏み出したことを、
静かに自分の中で噛み締めていた。