「チョコレートプールマッチ」 南利美VS???
「わかってるわよ!」
控え室のドアから頭をのぞかせた相羽に向かい、南は乱暴に答えた。
「ふふふ、羨ましいですわ。できることなら私が代わってあげたいぐらい…」
「うるさいっ!」
同室だった鏡の冷やかしへも怒鳴り返すと、慌てて首を引っ込めた相羽の後を追う。
(まったく、社長は何を考えているんだか…!)
南は、怒っていた。
始まりは一ヶ月ほど前のこと。
寮に貼ってあった試合日程を眺めていた誰かが、二月十四日に興行が組まれているのを発見し、
バレンタインにちなんだ特別なイベントをやりたいと言い出した。
それを聞いた社長が、どこからどう影響を受けたのかわからないが、ある新しい試合形式を提案する。
そして実際にその試合形式で戦う選手がくじ引きで選ばれ、それに南が当たってしまったというわけだった。
(うっ)
入場ゲートをくぐった時点から、既になんとも言えず甘ったるい匂いが漂ってくる。
南の怒りと匂いの原因は、リングの中央にあった。
よく子供のいる家庭などに置いてある、ビニール製のプールを二回りほど大きくしたような中に、
ドロドロに溶けて液状化したチョコレートが溜まっている。
相手をその中へ突き落とした方が勝ち、というルールになっており、
もちろん落とされた方は目も当てられないことになる。
(誰が喜ぶのよ、こんな試合…!)
そう思っていた南だったが、肝心の客席は異様な盛り上がりを見せていた。
中にはあからさまに、
『南ー!負けてくれー!!』
という、期待の声まで混じっている。
しかし、こめかみに青筋を浮かせながらリングインした南は、一旦コーナーにもたれて気持ちを落ち着かせた。
(要は私が勝てばいい話よ。誰だろうと速攻で締め落として、こんな試合すぐに終わらせてあげるわ…ッ!)
対戦相手は、南と違ってくじ引きではなく志願してこの試合に臨む選手らしい。
すぐには思い当たらなかったが、まずロクな相手ではないだろう。
そんなことを考えながら、南がその対戦相手の入場を待ち構えていると、
何故か唐突に試合開始のゴングが鳴らされた。
「え?」
怪訝な顔をする南に向かい、チョコレート溜まりの脇に立ったレフェリーが、
手招きしながら黙って傍の茶色いドロドロを指差している。
「まさか…」
そういえば、南は赤コーナーに誘導された。
対戦相手は、既に入場を終えているのだ。
リング中央のおぞましい液体へ恐る恐る近づいてみると、その表面にボコボコと気泡が浮いているの見えた。
「も、潜ってるって言うの…!?でも、だったらもう勝負はついてるんじゃ…?」
試合開始前から、既に一方がチョコレートまみれなのである。
問われたレフェリーも首を傾げてしまったが、
とにかく、ここでチョコレートから目線を外してしまったのが南にとって悪かった。
瞬間、ぬぼっ、という変な音を立ててドロドロの表面が盛り上がったかと思うと、
突如それが人間の形をとって襲い掛かってきたのだ。
「きゃっ!?」
あまりのことに、思わず似合わない悲鳴を上げながら尻餅をついてしまった南に向かい、
プールを抜け出した茶色い人型が無言で圧し掛かり、その上で四つん這いになる。
客席から見ると、尻尾と耳を形作っている髪が体と一体化して、
普段以上にリングネームの由来がよくわかったりしたのだが、間近で相対している南にそんな観察をする余裕は無い。
「な、何なのコレっ!?」
座った状態から腕を使ってリング端まで必死に後ずさり、ロープを掴んでどうにか立ち上がる。
ここで動揺から立ち直った南は、普段の冷静さを少し取り戻した。
(立たせない…っ!)
ベトベトにくっついたチョコレートの重さから、這った状態のまま立ち上がれずにいる相手に対し、
素早くサイドに回っての脇固め。
が、捕まえた腕はぬるりと抜けてしまう。
表面についたチョコレートの生温かい感触がなんとも言えず気持ち悪かったが、とりあえずそれどころではない。
「くっ!」
続いて足首と思われる辺りを掴み、腕を回してアンクルホールドへ。
しかし、これも滑ってしまうためにうまく極められない。
そうこうしている間にも、チョコレートまみれの怪人は片膝をつき、
どうにか少しずつ立ち上がろうとしている。
「じゃあ、これなら…っ!」
覚悟を決めた南は、自分が少々汚れるのも構わずに背後から組み付き、
相手の首に手をかけてスリーパーホールドを仕掛けた。
一度がっちりと固定してしまえば、首なら腕や足と違い、滑ってすっぽ抜けることはない。
今度こそ、南の関節技が極まった。
「うぐぐぐ……!?」
「誰だか知らないけど、このまま落ちてもらうわよ…!」
南の目の前には、相手の髪の層にチョコレートがコーテイングされた分厚い幕があり、
一体聞こえるものかどうかはわからなかったが、なんとなく囁いてみる。
もしかしたら、これが刺激になってしまったのかも知れない。
相手はどうにか両足をマットにつけると、最後の力を振り絞り、
首に巻きついた南を背負うようにして立ち上がった。
(大きい…!?)
と思ったのは反射的に両足を胴締めの形にしてしまった南の錯覚で、実際の身長は南と全く変わらない。
とにかく、チョコレートのプールから現れた怪人は、まるで生まれたところへ帰るように、
南をおんぶしたまま数歩、まだまだ残っているドロドロに向かって後退する。
「え、ちょっと待っ…!?」
そしてそのまま、南ごと背後に倒れる形で、二人揃ってチョコレートの中へと消えた。
「すっごく楽しかったぞ!」
「そう、それは何よりですわ」
後片付けに追われるリング上で、試合を終えた真帆が鏡に体を拭いてもらっている。
「………」
一方南は、ドロドロになった体を半分だけプールから出して燃え尽きたようになっており、
早く撤去したいスタッフが数人、困ったようにその回りを囲んでいた。
「南さんは、楽しんで頂けたかしら?」
「………」
「あら、そういえば味見がまだでしたわ。ちょっと失礼」
そう言うと鏡は、南の胸の、コスチュームから素肌が露出している部分を選んで人指し指を滑らせ、
付着していたチョコレートを掬い上げて自分の口へと運んだ。
それだけで、会場中が『おおお』と謎の歓声を上げる。
「…!?」
「美味しい。と言っても、客席の皆さんには目で味わってもらうしかないのですけど。
これは来年への課題ですわね。それでは南さん、お先に」
不覚にも南は、真帆を連れた鏡が帰って行く様子を、花道の半ばまでぼうっと眺めてしまった。
(…来年、ですって?)
試合の内容と、それを許した社長にばかり注意が向いて、
そもそも誰がこんなことをやろうと言い出したのかまでは考えが及ばなかった。
こんなことを考えついて、しかも社長にまで強引に迫って試合を無理矢理に提案させ、
ついでに真帆まで言いくるめて利用するような、手の込んだ悪戯が好きそうな――
「待ちなさいッ!!」
チョコレートの飛沫を上げて南がリングを飛び出した時には、
鏡は笑い声を響かせてバックステージへと逃げ込んでいた。