団体の社長秘書、井上霧子は、社長室に続く廊下を歩いていた。
社内で唯一の木製ドアの前で止まり、ほんの少し背筋を伸ばす。
ノックしようと手を伸ばした時、不意に内側から扉が開いた。
「あら。……失礼」
164cmの霧子がやや見上げるほど背の高い頭が顔を出し、
銀髪を軽く揺らして形ばかりの会釈をすると、霧子の脇を抜けてさっさと歩いて行ってしまった。
(あれは……)
「ああ霧子君、ちょうどよかった」
呆気にとられる間もなく室内から社長の声がかかり、中に招き入れられる。
室内には微かに先ほどの女性のものらしい残り香があった。
「うまく記事にしてもらったようで何より」
社長は美月たちが見ていたのと同じスポーツ新聞を机上に放って示した。
「ええ、まあ」
「ま、こういう小さな話題作りも今度までだ。次からはまた大きく仕掛けられる」
「と、言いますと?」
「二人とも復帰させるよ」
社長はそう言って机の上を指でコツコツと叩いた。
「この前の挑戦者決定戦、比較的若手の伊達かみことが勝ってくれればよしと考えていた。
ベテランの六角でもなんとか盛り上げていけたと思う。しかし内田は厳しい。
人気の面では現王者と大差無いからね」
淡々と自分の見解を述べる社長に、霧子は異論を挟んでみたくなった。
「相羽さんや神田さんの成長も目覚ましいものがあると思いますが」
「まあ実力的にはそうかもしれないが……人気は」
そう言って社長はかぶりを振った。
「何にせよ彼女ら二人ほどの知名度を持つレスラーを現状育てきれていないんだ。
であれば、まあ……時計の針を戻した方が利口だろう。プロレス的に言えばね」
「わかりました」
現場に近い霧子としては、美月らの姿を思い浮かべてやや思うところもあったが、
外面は事務的に応じる。
「それで、復帰戦は誰と?」
「タッグのベルトに挑戦させる」
この社長の一言には、霧子も眉を顰めざるをえなかった。
「それでは……あの二人を組ませると?あの二人は……」
「わかってる。ほとんど殺し合いのようなことをやらかした二人だからこそ、
逆に手を組めばそれだけで話題になるだろう……」
社長はそう言って軽く目を閉じた。
「……中途半端に方向修正するより、全部根底からひっくり返して一からやり直す方が楽だろう。
あの二人はそのための、“致死量の猛毒”とでも言うか……」
そう言ってイスごと後ろを向いた社長の、イスの背には――特に、何も書かれていなかった。
「わかりました。……ただ」
「何か?」
珍しく、霧子は社長に食い下がった。
「越後しのぶさんから、引退の申し出がありました」
霧子はそう言って、表情に険を表さないギリギリのところまで視線を強めた。
観客の波に揉まれる前に首尾よく「ゆりかもめ」へ乗り込んだ美月は、
新橋から山手線に乗り換えて新宿へ。
以前、相羽と一緒にサイン会をやった会場で、今日は写真撮影のイベントであった。
駅出口から百貨店の内部を抜け、会場である大型書店の最上階に着くと、
「控室」とだけ印字された紙が張ってある部屋へ案内される。
美月は開けるのを少し躊躇った。
個人名が表示されていないということは、ゲスト共通の控室ということだ。
そこは気を遣えよと思わなくもないが、ここは書店のなので、
リング上の事情を汲めという方が無理なのかもしれない。
ゆっくりドアを開けると、やはり先客がいた。
小上がりに置かれた炬燵に入ってスマホをいじっていた内田は、
入って来た美月を一瞥し、すぐ視線を手元に戻す。
(……居づらい)
今回のイベント、美月と挑戦者である内田の二人をゲストとして企画されたものであった。
その後、二人はイベントの時間まで結局一言も会話しなかった。
お互いそっぽを向きながらコスチュームへの着替えを済ませ、時間になればどちらからともなく会場へ。
最も美月にとっては、前回のように緊張することがなかった分よかったのかもしれない。
二つ並んだ簡易テーブルにそれぞれ着くと、
司会者のアナウンスで参加者と美月たちを仕切るカーテンが取り払われ、
フロアを埋め尽くした参加者から歓声が上がる。
試合以外の場面で注目を浴びるというのは、
何度経験してもむず痒い感じを覚えてしまう美月であった。
イベントとしては参加者と一緒に写真を撮るだけのことだが、
それぞれから出されるリクエストが中々凝っている。
基本的に美月は為されるがまま。
男性なら握手ぐらいまでで済むものの、美月ファンの中で結構な割合を占める女性からは、
抱きつかれたり頬ずりされたりという過酷なリクエストが出され、美月は虚ろな目で応えていた。
一方の内田はそもそもリクエストがし辛い雰囲気だったが、中には勇気のあるファンもいる。
「ヘッドロックしてください!」
と、果敢にもある少年が言った。
意図を察した内田は、あらあら、と、
悪戯した弟を優しく諌める姉のような笑顔を作っておきながら、
その実かなり本気で締め上げ、写真を撮る暇すら与えずタップさせてしまった。
そうこうしながら一時間もする内に段々と二人の前に並んでいた列もはけていき、
残り数人となった時、内田にヘッドロックされたのよりまだ幼い子供から、
「ベルトを巻かせてください!」
と美月は頼まれた。
それぐらいはお安い御用と応じかけたが、振り返ると机の上に置いたはずのベルトが無い。
「……って!」
いつの間にか、内田がちゃっかりと肩に乗せて写真撮影に応じていた。
横から美月が取り上げようとするも、内田も手を放さない。
「……私のベルトです」
「もうすぐ私の物になるわよ」
結局綱引きのようにベルトを取り合った姿勢で写真を撮られ、
ついでに何故かその写真がスポーツの新聞の紙面に載ってしまった。
「……という訳で」
「はは、まあそんなことだろうと思った」
その翌日、美月と越後は道場の壁に背中を預けて件のスポーツ新聞を見ていた。
「遺恨凄惨!」と題名がついた記事には、美月と内田の間の因縁があること無いこと書かれている。
というか大半が無いことだったが。
「元々この煽りをやって欲しくて記者を呼んであったんだろうな」
「やっぱりそうですか……」
「まあいいじゃないか。盛り上げる手間が省けたと思えば。ところで」
越後は、リング上で近藤をスパーリングパートナーに動き回る相羽を見やった。
「大事な試合が控えてる割には最近動いてないな。調整は大丈夫か?」
「今は体を動かすより、試合をイメージしてる方が落ち着くので」
「そういうもんか」
私にゃわからんとばかりに越後は首を振って苦笑した。
「ま、お前たち二人の勝負は色んな意味で興味深い――」
「……失礼します」
その時、すぐ側の入口からぬっと入って来た人影があった。
美月よりずっと高い身長に、薄手のジーンズとパーカーの下に伺える身体は尋常でなく引き締まっている。
長い金髪は先の方が灰色にくすんでいるものの、鼻筋の通った顔立ちと併せ十分に美人と言える。
そういった目立つ容姿の割に表情は伏し目がちで、ややおどおどしているように見えた。
「おお」
と目を見張った越後に対して、その女性は頭を下げて言った。
「また、お世話になります」
一見してこの団体のプロレスラーらしい彼女だが、美月は不思議とその人物に思い当らなかった。
>中堅トーナメントですか。神田は優遇されているので、ここで挫折させるのもいいですね。美月の決着……少なくても馬鹿にした人達(特に相羽)に謝罪はしてほしいですね。(けじめもつけない。過去の行いをなかったことにする屑にはなってほしくないので)
んなもん、プロレスならいくらでもあるでしょうよ、というのが正直なところ。
まあ話の繋がりとして、あの二人が何事もなく接してるってどうよというツッコミはあるんでしょうけど。
>相羽の試合については、描写はなくても「シングルで勝利」という結果を話の中で描写するという方法もあったり(いい加減「自分の実力で勝つ」という展開を、結果だけでも見たいので!)
>相羽、やっとシングルでの勝利が書かれましたね。これでようやく「扱いが良くなった」というのが伝わってきました。
>それに、やっぱりタッグよりもシングルでの勝利のほうが強くなったことが良く分かり、改めて相羽の成長がハッキリと確認できました。
>(説明だけじゃ分かりづらいし、説得力もないので、成長話書いた以上、勝利する話は勝利話は絶対必要)
というわけで相羽戦でした。
まあ……うん、どうなんでしょう。
NOAH見てて鈴木鼓太郎のエルボーがいいなあと思って、
エルボー使わせるなら相羽しかいないと、短めにさくっとやってみました。
しかしこれ、ちょっと余計な寄り道だったりして。
ちなみに中堅トーナメント、勝つのは相羽でも神田でもありません。
>格闘技出身者とはいえ、神田では持ち上げられなかった藤原の大幹の強さは納得です! それでも藤原を負かしたのは、経験の差というやつなのでしょうか。ボディブローで逆転したあたりは”流石ボクシング出身者”と納得、でも最後はパンチで決めて欲しかったです。ごりごりのインファイトからカミソリ掌底……是非見たいです!
体幹で藤原、瞬発力で相羽、そして馬鹿力で……という感じで投げキャラ勢を分類してます。
でも実はいまいち体幹が何なのかわかってないという。
この左ボディブローというのは歴としたプロレス技としてあるんですが、
顔面への素手パンチはルール上反則なので直でカバーには入らせません。
実際は……どうだろう?
殴ってカバーにいってもレフェリーは普通にカウント入れる気がする。
掌底を使わせるかどうかも悩みどころ。
ボクシング経験者ってむしろ掌底使わないんじゃないかなあ。
>相羽が普通に凄い!(笑) ローリングエルボーという技も、こうして見ると実に相羽らしい技でした。ハイキックで倒れなかったあたりは、越後との特訓の成果か、それとも前回の藤原のようなやはり体幹が強かったことが関係しているのか? 想像するだけで楽しいです!
相羽が倒れなかったのは、ハイキックをもらいながら回転していたから、という……
ほらあの……首だけ回してパンチを避けるやつを全身でやるっていうか……
うん、わかりづらいですよね。すいません。
ローリングエルボーは相羽に合うと思ってます。
今のところ動きは田中将斗そのままですが、先々は三沢さんになれる……かな?
そう、最後に神田のこと。
元々神田を藤原に勝たせる気はなく、メッセンジャーで藤原が丸め込んで勝つはずでした。
が、書いてる時にちょうどマニー・パッキャオ対ファン・マヌエル・マルケスのボクシングの試合を見てて、
この試合を決めたマルケスのカウンターがあんまりにも見事だったため、
つい神田でやってしまった結果勝たせることになったのでした。
多分、素手でやったら前歯が全部折れるんじゃないかな……
会場の一番後ろで神田の試合を見ていた美月は、
決着後も起き上がれずにいる藤原を見て、思わずそう声に出た。
勝負は実質、フィニッシュ前の右カウンターでついていた。
流石は神田と言うしかないが、それにしても見事な一発である。
(今後、試合で当たるようなことがあれば気をつけよう……)
と、そんなことを考えていた時、
「よっ」
いきなり両肩を後ろから掴まれた。
「っ……え、越後さん?」
「ファンイベントまでの暇潰しか?だったら次まで見て行けよな」
普段着姿の越後しのぶであった。
「なんでここに?」
「それはお前と一緒だな。相棒の試合を見に」
「相棒って……」
自分と同期の相羽がこの興行に出ているはずは無い。
咄嗟にそう考えた美月だが、現に会場には相羽の入場曲がかかっていた。
これから始まる試合、中堅トーナメント若手枠のもう一試合には、
実のところ直前まで、相羽ではなく早瀬が出場するはずであった。
ところがその早瀬は数日前の練習中に怪我をしてしまい、
それが完治しなかったため、代わりに急遽相羽が出ることになったのである。
当然、戦う相手は若手になるのだが、しかし楽な相手ではない。
リングに上がった相羽と相対したのは近藤真琴。
数ヶ月前、中堅ではなくヘビー級王座のトーナメントにエントリーされていたほどのレスラーである。
その時は美月に敗れているが、それも楽な戦いではなかった。
ふむ、これは、と興味深げな視線を送る美月の隣、
相棒を見つめる越後の目には、どこか楽しそうな輝きがあった。
それぞれのコーナーから真っ直ぐに進み出た二人は、まずがっちりと組み合った。
上背で勝る近藤だが、上から押さえつけられる形の相羽も全く引かない。
ややあってから、どちらも埒が明かないと見て同時に離れ、まず近藤がロープへ走る。
「おおおッ!」
走り込んでのショルダータックル。
これを相羽が仁王立ちで受け止め、今度は自分がロープへ。
「ってぇぇッ!」
再度肩口をぶつけ合い、近藤をマットに倒した。
またすぐにロープへ飛ぶ相羽に対し、近藤は冷静に仰向けからうつ伏せになり、
自分の上を相羽に跨がせる。
起き上がり、ロープ間を往復して戻って来る相羽に対し、ショルダースルーの姿勢で待ちうけた。
相羽はこれを正面から飛び越しつつ近藤の胴体に両手を回し、ローリングクラッチホールドへ。
だが近藤も、後ろに倒される勢いを利用しての後転から立ち上がり、
上体だけ起こした姿勢の相羽へローキック一閃。
これを相羽は正面から受け止め、近藤の右足を掴んだまま立った。
「おりゃあッ!」
右足に肘を落としてから解放し、離れ際更に肘を近藤の頬に叩き込む。
更に、お前も打ってこいとばかりに構えれば、
近藤も遠慮の無いミドルキックを相羽の胸板に放っていった。
相羽が仕掛け、近藤がやり返す。
そんな単純ながらゴツゴツとした見応えのある試合は、それほど長く続かなかった。
試合時間5分が過ぎようかというところ、ロープへ走った近藤の後ろを相羽が追いかけ、
振り向いてロープへ背中を預けた瞬間の近藤へ串刺し式のランニングエルボー。
「ぐぅっ」
逃げ場無く相羽の体重が乗った一発を受けた近藤がふらふらと前に出るところ、
相羽はすかさず反対側のロープへ飛び、ラリアットを叩き込んで薙ぎ倒した。
「よっし、いくよッ!」
「……まだまだぁ!!」
相羽が気合を入れ直そうという時だったが、倒された近藤はすぐさまマットを叩いて立ち上がる。
向き直った相羽の左脇腹へパンチを入れて動きを止め、
すぐさま左右の掌底で追い打ち、続け様にハイキックを放った。
ここで近藤はコンビネーションに集中する余り、
ハイキックの当たった感触に違和感があったことに気づけない。
締めとばかりに裏拳を狙って近藤が背中を向けた時、
同じく相羽も、蹴られた勢いそのままに後ろを向いていた。
「え……っ!?」
風を切って襲ってきた近藤の拳の先端へ、こちらも回転して勢いをつけた相羽の肘が命中。
近藤が思わず拳をおさえて怯んだスキを、相羽は見逃さない。
組むが早いかブレーンバスターの要領で近藤を放り上げ、自分はその場に尻餅をつく。
落下してきた近藤の顎を右肩で跳ね上げ、ロープへ。
両膝立ちで伸びあがった姿勢の近藤へ、全体重を乗せた右肘を叩き込んだ。
むぅ、と思わず唸ってしまいそうな畳みかけである。
「うん、センスが磨かれてきているな」
満足げに腕組みしている越後の横で、美月は特に表情を表さない。
近藤から文句の無い3カウントを奪った相羽は、リング上でタッグのベルトを掲げながら、
同時にもう一本のベルトを腰に巻くアピール。
(どうなるやら)
美月は、ひとまず相羽のことを考えないようにした。
中堅ベルトを誰が手に入れようが、今の自分には関係の無いこと。
将来の脅威“かもしれない”ものより、現在の脅威”かもしれない”ものに目を向ける方が、
ずっと意味のあることだと思うことにした。